『急に具合が悪くなる」を読んで、観て、考えたことー第二弾 構造と個人の在り方ー

勉強

今回は前回の『急に具合が悪くなる』を読んで、観てのつづき、

映画の感想について、私が考えてなかった視点について考えて書いてみようと思います。

前回のブログで、私はこの映画で感銘を受けた部分について書き、

それがユマニチュードという「人を人として扱う」というそのあり方でした。

その後に映画のプレビューを見ていると、

「白人と黒人、移民の非対称な格差(構造)」

について指摘しているものがありました。

私はほとんど意識していない視点でした。

そして、私の感動した「ユマニチュード」が単純に素晴らしいから、

ケアされる側、する側の構造の格差から見るとどうだろうか

という問いに変わりました。今回はその辺りについて考えてみようと思います。

「白人と黒人、移民の非対称な格差(構造)」とは

「白人と黒人、移民の非対称な格差(構造)」ってどういうこと?と思われたと思います。

それをGeminiにまとめてもらうと、

1. 「白人=ケアされる富裕層」と「黒人・移民=ケアする労働層」の非対称性

  • 劇中をよく見ると、手厚い最先端ケア(ユマニチュードなど)を受けている施設入居者(ケアされる側)は全員が白人です。 
  • 一方で、彼らの身体を支え、排泄や入浴の世話をする看護師・看護助手(ケアする側)の半分近くは黒人であり、そこにはアルジェリアなどマグレブ系(北アフリカ系)にルーツを持つ移民系のスタッフも混ざっています。 [
  • 映画はこれを大層なセリフで説明するわけではありませんが、画面の構図(白人の老人を黒人の若いスタッフが文字通り「支えている」構図)として常に提示され続けています。 

2. 「自由の庭」という欺瞞と資本主義の限界

  • マリー=ルーが理想として掲げる「人間らしさを取り戻すケア」は美しいものですが、そもそもこの民間施設は投資家たちの顔色を窺わなければならない「ビジネス」として成立しています。 
  • 批評では、「この優雅で自由な空間に、人生の最期に入れるのは経済的余裕のあるマジョリティ(白人)だけであり、それを低賃金で支えているのはマイノリティ(移民・黒人)である」という、現代フランス(および西欧社会)の縮図・格差の構造がリアルに暴かれていると指摘されています

とまとめてくれました。

これを読んで改めて非常に鋭い指摘だなと思いました。

この映画の中で、私が素晴らしいと思っていた「ユマニチュード」は、

ケアされる人=白人

ケアする人=黒人、移民

そうした人種の格差の中で成立している構造の中で行われているように見えます。

だとすると、

ユマニチュードの「人を人として扱う」という姿勢が、この構図で完全に当てはまるのか。

という疑問に行き着くのです。私はその側面に気がついていませんでした。

ー意識しないと見抜けない構造ー

映画を見ている時の印象

映画を見ている時、私は「ユマニチュード」に感銘を受けていました。

だからなのか、この白人と黒人移民という構造については特に気にしていませんでした。

フランスの老人ホームとはこういう感じなのか、つまり、白人が入居し、

白人、黒人、移民でケアを行う。

それと似たような感覚の例として、

日本の老人ホームのCMでも、日本人がケアされる側、

そしてケアする側に日本人、そしてヒジャブを被った女性(おそらくイスラムの方)

というものを見たことがあります。

そうした感じで、最近のリアルのあり方を見せるために描いたただの比率なのかなと思っていました。

この批評を見てからの考えたこと

上記の批評を見るまで、私はその構図については考えていませんでしたし、

気がついてもいませんでした。

「ユマニチュード」に感動し、構造については普通のことのように流していました。

それって、意識して物事を見ていないとなかなか気づけないことなのだなと思いました。

そして、その構造の中にいる自分の「特権」に気づけないままいきていることになる

のかもしれないと思いました。どういうことか?

私はユマニチュードという「人を人として扱う」というあり方に感銘を受けていました。

でも、この考えに感銘を受けることができるのは、

自分が「ユマニチュード」つまり「人を人として扱うこと」を問題にし、

考えられるそういう環境にいるということです。

このような考えについて考えることは重要であり、倫理的にも必要なことで意義深いことだと

私は思っています。そして、人権の尊重は世界中どこでも行われるべきことだろうと思います。

ですが、実際、それが叶わない状況、ましては「人が人として扱う」ということする考えること

ができない、ましてはそんなことがあることもしらない人もいるのだろうということも考えたのです。

今回の映画では、ケアをする側の介護職員の黒人移民は、「人を人として扱う」ことを、

つまりユマニチュードの実践をマリー=ルーにいわれるけれども、

彼ら自身がそれを受け取っていることが果たしてあるのだろうか

ということも考えたりしました。

もちろん、映画の中で彼らがどのような思いで働いているのかまで、私には分かりません。

ただ、この構図を意識して見ると、ふとそんな疑問が浮かびました。

だからと言ってユマニチュードが「悪い」とか「いい」とかという話がしたいのではありません。

事実としてそうしたこと構造があるということ、

そして

私がユマニチュードを考えることができる環境にいるということ

が見えてきた感じです。

でも、構造に囚われすぎてもいないか?

もう一つ、感じたことがありました。

それは白人の方と黒人、移民の方の構造だけをみたら、個人を見失うのではないのかということです。

これも私の仮説ですが、もしかすると、黒人、移民の方がこの仕事をやりたくてやっている、

白人黒人という構造に押し込まれたのではなく、個人として選び取ったということはないだろうか、

というような可能性についてです。

ケアする側にいる人を、「社会的に弱い立場だから、この仕事をしている人」と決めつけてしまったら、

その人自身の意思や仕事への思いを消してしまうのではないかとも思います。

そして、そのようなステレオタイプな見方で見ることが、一つの偏見になるのではないかと思います。

どこかで、この構造はこういうものだという自分勝手なバイヤスで物事を見てしまう恐れがある。

そういう危険性も孕んでいるのではないかと思います。

映画を観て、批評を読んで考えたこと

「ユマニチュード」という考え方は、私は今でもとても素晴らしいと思います。

ただ、今回この映画を別の角度から見たことで、「人を人として扱う」という言葉そのものについて、

少し考え直すことになりました。

社会の中には、本人の意思とは関係なく、人をある役割に置いてしまう構造があります。

だからその構造を見ることは必要です。

けれども、構造だけを見てしまえば、今度はその構造の中にいる一人ひとりの人間が

見えなくなってしまう。

そうするとそれが今度は逆に、「人を人として扱う」ということとは反対のことなのかもしれません。

構造を見ることと、その中にいる一人ひとりを見ること。

その両方を持ちながら人を見ることは、一筋縄ではいかない難しさがあります。

けれども、今回いろんな視点でこの映画を考察することで、

こうしたバランスの中で、私たちがあるのだということを考えました。

そして、その根底にはやはり、「人を人として扱う」という思いがあるということは

わかったような気がしました。

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