『急に具合が悪くなる』を読んで、観て、考えたこと

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今回は『急に具合が悪くなる』を読んで、観て、その感想を書いてみようと思います。

私はこの映画を6月に観て、非常に感銘を受けました。

それから、再度本を読み直し、色々な人の感想などを読んだりきたりして、

色々と考えていると、こんなに時間が経っていました。

映画を観て、私は6割くらい涙を流していました。

なぜこんな涙腺が崩壊していたかというと

その理由として2点あります。

一点目、

この映画が、「人間を人間らしく扱おう」と言うことを軸に置き、その実践と葛藤が描かれていたこと。

そして、それが私の関心事と一致したこと。これが大きかったように思います。

2点目、この映画は原作本『急に具合が悪くなる』があり、その原作本から、

私が感じたパッションのようなものを、映画の中で体現されているなと感じたことがあります。

そんな私の感想とはが逆の感想だったり、疑問を投げかけている感想をいくつか見ました。

大変考えさせらるものでした。今回は自分の感想を深掘りして、

次回異なる感想から考えたことを書いてみようと思います。

わたしが感じる日々の違和感と映画とのシンクロ

私は日常で「人間を人間らしく扱ってない」と感じる瞬間があります。

効率やシステムを優先すると、人が駒のように扱われている場面があるなと思ったりします。

例えばバイトの時。社員の方がシフトを作成している時に、バイト、パートの方を

「ここに〇〇を入れときゃいい」みたいな言い方をしていることを何度か聞いたことがあります。

もちろん、その一言だけで、その人が本当にバイトを駒のように考えているのかは分かりません。

ただ、その言葉を聞いた私は、「個人を見る」というよりも、

必要な場所に人を当てはめているような感覚を覚えました。

また別の例として、小学校のボランティアの時。

私は小学校でボランティアをしているのですが、そこでも時々似たようなことを感じます。

先生は、日々子どもたちの成長のために、いろんなことを考え行動されています。

本当にありがたいと思います。

けれども、先生としては、カリキュラムをこなさなければならない、

時間内に授業を進め終わらせなければならない。

そうすると、目の前にいる子ども一人ひとりを見ることよりも、

「この時間までにここまで進める」「この子をこうできるようにする」

ということが優先されてしまうことがあるように思います。

もちろん、先生たちが子どもを大切に思っていないということではありません。

そうした狭間で先生たちが日々過ごしているということを、私は少しの時間だけ携わっていませんが、

感じました。

だからといって、私はそれを単純に「いけないこと」と非難したいわけではありません。

そこにはどうしても、人を「その人自身」として見ることが難しくなってしまう構造が

あるのだと思います。そして、私はそうした構造に違和感を感じていたのだと思います。

そして、この構造の根底には、資本主義の構造も関係しているのではないか

と漠然と感じていました。

効率よく働くこと。

限られた時間で成果を出すこと。

必要な場所に必要な人を配置すること。

そうしたことが求められる社会で、一人一人を考えるということはなかなか難しいことでも

あると理解しています。

だけど、多くの人も同じようなジレンマを感じながらも、日々を回すことに必死で

そのことを仕方なく受け入れていたのではないかと思います。

もしくは、それに対してなすすべもなく、ただただ見過ごしていた

ということもあるのかもしれません。

そのような思いの中、この映画は、「私が感じていた違和感がまさに映画化されてる」

というような感覚を受け、私はひどく共感し、感銘を受けたのでした。

「人を人として扱うこと」=ユマニチュードの実践

私はこの映画で「人を人として扱う」という実践を見たような気がしました。

どういう部分にそう感じたのか少し書いてみると、

老人ホームのディレクターをしているマリー=ルーは、

ユマニチュードという介護技術を施設に浸透させるべく奮闘しています。

ユマニチュードとは、ケアを受ける人を「対象」ではなく、

感情や意思を持つひとりの「人間」として捉える姿勢を明確にした技法のことです。

ユマニチュードの四つの柱として、

見る:視線、話す:言葉、触れる:接触、立つ:身体機能の維持

というのがあるのだそうです。

これだけ読むだけでも、私としてはすごい考えだなと思います。

こうした姿が映画の中では随所に描かれていました。

そのあり方そのものが、「人を人として扱う」という姿勢だと思います。

実際映画での一つにシーンとして、

利用者の方が暴れているのを介護士が抑えようとするところをマリー=ルーは目撃する。

そして彼女はすぐさま駆け寄り、その利用者さんの目を見て、優しく微笑みながら、

声をかける。そうすると、暴れていた利用者さんも穏やかになって歩き出す。

そのようなシーンがありました。

この介護士がやっていた行動というのは、誰しもがとっさにやってしまう行動だと思います。

私も子供が小さな時、騒いで欲しくないところで、騒ぎ出したら、とっさな判断で

強くその行動を止めようとしていました。

もちろん子供の意思などを聞くとか、優しく微笑みながら声をかけるなんてことは

考えも及ばなかった。だから介護士のとっさの行動も理解できるのです。

だけれども、よく考えれば、相手が自分の目を見て、優しく声をかけるといった、

尊厳をもって扱ってくれれば嬉しいものです。

この場面を見て、私は「人を人として扱う」ということが、少し具体的に見えたような気がしました。


相手を、ただ「暴れている人」「介助しなければならない人」として見るのではなく、

感情や意思を持った一人の人として見る。そして、その人を見たところから、次の行動を考える。

私が日常の中でなんとなく感じていた「人を人として扱う」ということは、

もしかすると、こういうことなのかもしれません。

それと同時に、いかに難しいことのなのかがわかります。

また別の映画のシーンでは、

この老人ホームでは、ユマニチュードを浸透させるための研修などを行なっている。

それによって、人手が不足してしまう、時間もかかりすぎる。だから反対している人もいる。

今のこの現状の中で、ホーム入居者、そして実際ここでは足りている人々、

それぞれの最大あり方を考えること、それらも重要なあり方でもあります。

だからこそ、この反対している人の気持ちも理解できます。

だからこそ、私があげたような違和感が簡単に解決できるわけではない、ということも含めて、

色々な人の立場の苦しみがわかり胸がキューンとなり、大変共感したのでした。

本と映画での描き方ー二人の偶然性と熱いパッションー

もう一つ映画に感動したのが、原作本で私が感じた印象が映画でも再現されているように

感じたからです。

原作本は、がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者宮野真生子さんと、

臨床現場の調査を積み重ねた人類学者磯野真穂さんの往復書簡で書かれています。

この本を映画化すると、聞いた時どのような形になるのだろうと思いました。

というのも、もしもこのまま描いたら、手紙を読むシーンとか、書くシーンだけになるのでは

ないかという感じだからです。

ただ、この手紙の一つ一つは、二人の熱い熱い語り合い、直球勝負の言葉の応酬であり、

宮野さんの研究していきたことと彼女の生命とのシンクロが凄まじく伝わるものでした。

そして、その言葉を引き出してきたのが磯野さんでした。このあり方がまさに「偶然性」であり、

そうした二人の在り方も含めて、私は本でもかなり感動をしました。

私が感じた本のエネルギー、熱量のようなもの、が映画中でも描かれていました。

本の感動と映画がシンクロして、私はそれも胸熱にした要因だと思います

このような二つのことがあって私にとって素晴らしい映画だと思ったのでした。

次回は、こんな胸熱になった私とは異なる意見を元に考えたことを書いてみようと思います。

私がもってない感想は、新しい視点を与えて守られるので非常に面白いなと思います。

次回もぜひ読んでいただけると嬉しいです。

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