人それぞれの「ヘブン」、『ヘブン 川上未映子』を読んで

本 勉強

今回は『ヘブン 川上未映子』の本を読んだ感想を書いてみようと思います。

ヘブン、天国とは一体どんなところなのかそんなことを考えながら読んでみました。

そこから出た結論としては、

「ヘヴンとは、それぞれの人によって異なるものである」

ということなのかなと思いました。それについて書いてみようと思います。

『ヘブン』の簡単なあらすじ

このお話は中学校のお話です。

そしてヘブンという題名からは考えられないような壮絶な状況が描かれています。

主人公である僕は、二ノ宮などにいじめを受けています。

殴られたり蹴られたり走らされてたり。

ある日、僕の筆箱の中に<わたしたちは仲間です>という手紙が入っている。

そして手紙が定期的に届くようになり、その差出人はクラスのコジマという女の子からだとわかる。

彼女も僕と同様にいじめにあっている。

二人は手紙のやり取りをして自分たちの状況を乗り切ろうとする。

私の勝手な読み方

ここからは、私が『ヘブン』を読んで、勝手に解釈したことを書いてみようと思います。

それぞれの人の「ヘブン」がどんなものなのか。

僕とコジマの関係性と二人のヘブン

二人はいじめられている過酷な環境でありながらも、どうにかお互いの存在にはげまされたり、

このいじめには意味があることなんだといって、自分たちのありようを肯定しようとしています。

私はこのあり方にはじめ、二人の生活の事情などはわからなかったので、

率直に「学校に行かない選択をするべきでは」と思っていました。

(途中からなぜ二人がその選択ができなかったのかがわかるのですが)

しかし、学校に行かないという選択できなかったのかもしれません。

しかし、その状況を、自分たちの作り上げた物語の中に組み込んでいるのかもしれないと思いました。

その物語とは、二人は今のこの状況を肯定し、そしてそこに意味を見出す、というものです。

私は読んでいて、そのような二人のあり方に、

二人がそれで納得できるならそれは一つの生き方であるとも思いました。

そして、例え、周りから見ればひどい生活と言えるような状況も、

この二人が作り上げてきた物語の中で生きていくこと、

それが二人にとっての「ヘブン」だったのではないかと思います。

しかし途中から事態が一変します。

それはいじめをしている一人である百瀬と僕が話している中で言われる言葉、

「苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものに

そもそも意味がないなんてあたりまえのことにも耐えられないんだよ」177

と言われます。

まさに百瀬が言った言葉の通りに過ごしてきた僕にとって、

コジマと築き上げてきた物語に揺らぎが生じます。

それと同時に読者である私は、コジマの考えが少し宗教的な要素を帯び始めているなと感じました。

コジマ曰く、僕は斜視、コジマ自身は不潔な状態、が二人の仲間であるしるしであると、

そして彼らがいじめに耐えているのは美しい弱さなのだと、そのようにいうのです。

だから僕が斜視が治る可能性があると伝えると、コジマはそれは強いものの側に逃げるということだ

といわれます。

そして彼女の言葉

「これは試練なんだよ。これを乗り越えることが大事なんだよ」200

これは、コジマは、そのようにいって僕の斜視を治すことを受け入れられません。

こうした状況に私は少し違和感を感じます。

自分たちの境遇をあまりにも神格化してしまい、そしてそこに選択の自由がないとするならば、

もしかすると、この形の「ヘブン」が崩壊に向かいつつあるのかもしれないなと感じました。

二ノ宮と百瀬の関係

二ノ宮は僕をいじめる主犯格のような人で、読んでいても非常に嫌な気分にさせる人間です。

百瀬は二ノ宮といういじめのグループの一人です。

しかし彼は不思議な存在で、直接的にいじめに加わっているわけではない。

いじめが起こっている少し離れた場所で腕を組んで見ているような人だ。

そんな何も手を加えないけれども、なんの感情も持たないような状態でいる、

そうしたなんとも言えない怖さのようなものを感じさせる人です。

罪悪感とかそう言うものは持たない冷淡さを感じさせる人間。

そう言う人間に媚を売っていると言うか、尻尾を振っているのが二ノ宮です。

二ノ宮は一見すると残酷な男だけれども、彼も結局何かしらの強さ、神格化された人間である百瀬

に媚びています。もしくは二ノ宮は実は百瀬に陶酔しているのかなと思ったりしました。

(1の章の終わりに、百瀬を探す二ノ宮のシーンがあります。

そのあたりから二ノ宮にとって百瀬が需要な人物であるというのがわかります)

こうしたいじめをする側で強いと見える人であっても、なんらか神格化しているものがある。

そしてそこには慕う、慕われているものというような関係が見て取れます。

どんな人でも、こうしたあり方がないと保てない何かがあるのかなと考えたりました。

誰かをいじめて強いと見せているにも関わらず、その内側には別の心の安定というか

支配というか拠り所というかそういうものが必要であるというようなそんな感じを受けました。

またなんの手を加えずに上からいろんなことを見ている百瀬自身も、

結局は誰かのありようの上に百瀬が立ち現れる。

つまり百瀬自身も誰かが必要であり依存している立場です。これも見逃せない部分だと思います。

そうしたありようが彼らにとっての「ヘブン」であったのではと読みました。

キリスト教

ここからは私の勝手な読み方です。

ヘブン=天国と聞いて浮かんできたのが「キリスト教」でした。

キリスト教だけでなく多くの宗教は、何かを慕い、そこに救いがある、

そしてなにかの行動をすれば「天国」という場所に行けるのだというような思想があります。

自分たちがこれだと信じた物語がある。それがあるから、自分の状況を正しい道なのだと、

この先には「ヘブン」があるのだということが一つあるのではないかと思います。

これらから考えたこと

これら三つの共通項として、

「物語による、また何かしらの強く、信じられるものがある、

そうした信じるものみたいなものがヘブン」

と捉えられるのかということでした。

整理すると、

コジマは「ヘヴン」という物語を信じようとする。

主人公僕はコジマに引き寄せられる。

二ノ宮は百瀬という人物に引き寄せられる。

こうした何かしらのを信じるている、惹きつけられている構図が見えてきます。

そして、そこで作り上げられた関係とか物語は、自分たちのあり方を肯定し、

「ヘブン」として立ち現れてくる。

二ノ宮は百瀬というに人間が存在していることで、いじめをすることに何かしらの権威というか

何かしらの力を付与したような感覚を持っているのではないかと思います。

そこで自分たち作り上げた共同体にいるというヘブンを感じているのではないか。

そう思いました。

ただし、そのあり方が過剰になるつまり、束縛するような強い思いが生じた時、

そのヘブンはもうヘブンではないのかもしれません。

だからこそ、僕とコジマは別の道を歩きだします。

僕は自分の意思で斜視の手術を受けることにきめます。

そこで、美しい弱さの構図から抜けるわけです。僕とコジマの物語の崩壊です。

物語ではないヘブン

手術をすることで、物質的に僕の見え方が大きく変わり、新たな世界を見ることが

できるようになりなります。

だからこそ、本書の最後「それはただの美しさだった」と2度ほど書かれています。

これは今まで二人で作り上げてきた物語的な美しさ=弱い美しさ、

ではなく本当の美しさを身をもって体感したのだと思います。

何の理由、作り上げることもないその美しさを。

ここでわたしは純粋なヘブンを見たような気がしました。

私たちは作り上げなくてもヘブンが存在しているのかもしれないということを考えたりしました。

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