前回私は『本心 平野啓一郎』の本を読んで、VFを通して、自分の心を整理する供養、
つまりグリーフワークをしているのではないかということを考えました。
そんな中で、面白いポットキャストを聴きました。
それは「狩猟採取民ブッシュマン」の死の考え方です。
そこから私は、「供養」というものは、一つだけではなく、
文化によっていろんな形があるのではないか、ということを考えました。
今回はそのことについて書いてみようと思います。
(注意点:日本とブッシュマンとわかりやすくするために、
二項対立的に記載している部分があります。ですが実際はそうではないと思います。
その辺りを踏まえた上で読んでいただければと思います。)
ポッドキャストで聞いた「狩猟採取民ブッシュマン」の死に関する話
今回聞いたポットキャストはこちら↓
狩猟採取民ブッシュマンの死の考え方がとても興味深かったです。
私にとってどういうところが興味深かったかというと、
ブッシュマンは、
「死を早く忘れようとする」
「死ぬことは怖いことではない、ライオンに襲われる方が怖い」
「死にそうな人に向かって、この人は死んでしまうからなどとはっきりという」
というところです。
この話から、私なりにざっくり大胆に、「日本」と「ブッシュマン」という形で
分けて書いてみようと思います。
「死を早く忘れようとする」
日本の多くの場合
私は前回のブログで、
人々は、VFやアンドロイドを使って、自分の心を整理し、
それが自分と使者との間の供養になっているのではないか、と話しました。
それと同時に、私たちはブッシュマンとは異なり、どちらかというと、
「死者のことを忘れないように」
「亡くなった人のことを覚えておく」
というように、死を覚えていることを良きことのように考えていると思います。
もちろん宗教、文化、そして家庭によっても異なると思いますが、
日本では多くの場合、人が亡くなったら、仏教の教えに則り、
法事を行ったり、お盆にお墓参りをすることがあります。
このようにして、死者のことを思い出すようなかたちになっているように思います。
ブッシュマンの場合
ブッシュマンは、死を忘れようとしているようです。
例えば、
「早く死を忘れないと、それを覚えている人間は病気になる」
「夢で死者が出てきたら、それはいいことではない」
というようなことを言うそうです。
人々は「死」を忘れようとしている。
日本とは真逆の考え方のようで非常に興味深く感じました。
そして書いていて思ったのは、
「死を忘れること」と「死者を忘れる」は異なるものではないかと言うことです。
ブッシュマンの人も、死者を忘れるということはありません。
あたかもその人が生きているように、それらの人の武勇伝を語ったりすることが
あるそうです。
死者を忘れるのではなく、その人が死んでしまったこと、
その事実を忘れようとしているのかなと思いました。
「死ぬことは怖いことではない、ライオンに襲われる方が怖い」
これはポットキャストの話を聞いてもらうと非常に面白いエピソードが聞けるので
ぜひ聞いていただきたいです。
さて次に興味深いのは
「ブッシュマンにとって、死というものは逃げられないものである。
だから怖くはないけれども、ライオンからは逃げられるから怖いのだ」ということです。
わかるようなわからないような感じです。
私たち日本人も、死ぬことは逃れることはできないし、
誰にでもいつかはくることだと知っています。
だけれども、どこかで死それ自体をリアルとして感じられていない。
本当の本当のところはわかってないのではないかと思います。
だけど、ブッシュマンは、死が近いところにあるのだと想像します。
私の推測ですが、狩をして動物たちの死も見ている、
どういことか肌感覚でわかっているのではないか、と思います。
だからこそ、その事実を受け止められるのではないかと考えました。
そう考えると、ブッシュマンたちは、ある意味で非常に現実主義的です。
死という避けられないものを必要以上に恐れるのではなく、
実際に目の前にある危険を恐れる。
その感覚は、私たちとはかなり違うように感じました。
「死にそうな人に向かって、この人は死んでしまうからなどとはっきりという」
非常に興味深い三つ目は、
ブッシュマンは、死にそうな人に向かって、
「このような症状ができたら、もう少しで死んでしまうから」
とはっきりというようです。そして死にそうな人本人も、
「もう自分は長くない」
というようなことを平然と話すようです。
日本では、このようなことは少ないような気がします。
例えそうだと思ったとしても、はっきりとは互いに言わないような気がします。
それは気遣いの部分もあると思いますが、
そうならないでほしいというある種の願いのようなものでもあると思います。
しかしブッシュマンは、互いにそういうもんだよというように現実をたんたんと受け入れている。
先ほどの「死ぬことは怖くない」に通じる考え方だと思います。
今までのことをまとめて考えると、
ブッシュマンは、「死者を忘れようとしている」のではなく、
「死」それ自体を忘れることで、悲しみなのか恐怖なのかそうした負の感情から、
はなれていこうとしている、そうした供養の仕方なのだと思いました。
「死」という事実と「その人自身」とは別のものだと考えているように見えます。
日本では、死者の生きていたことなどもを振り返りながら、
その人が死んでしまった事実を整理しながら、死自体を受け入れていく、
そのようなあり方のように感じました。
このように見ていくと、
供養とは、死者をどう記憶するかという問題ではなく、
残された人間が「死」とどう付き合っていくかの方法なのではないか。
そのように思いました。そして供養として、
死者を忘れないようにするそのあり方で死を受け入れ、悲しみから抜け出す
死自体を忘れることによって、悲しみから抜け出す
と色々な向き合い方があるのだろうと思います。
VFは死者を忘れないための供養、ブッシュマンは死を忘れるための供養。
方向は逆でも、悲しみと向き合うという点では同じなのかもしれません
そして、これは誰しもが起こる死ということを考える上で大切なことであるように思いました。
供養の仕方は色々とあり自由であるのかもしれない、と考えさせられました。

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