ドラえもん『海底鬼岩城』を観てー感動とは、人生が滲み出たものかもしれないー

ドラえもんの銅像 ブログ

今回もドラえもん『海底鬼岩城』の映画を観て考えたことを書いてみようと思います。

前回はバグと利他という視点で書いてみました。今回は別の疑問を考えてみます。

私はこの映画で、機械であるバギーの変化に感動し、泣いてしまいました。

さらにいえば、この映画自体実際はあり得ないことを描いているにもか関わらず、です。

こうしたことから、3点疑問を持ちました。
1、バギーの変化は「理解なのか」それとも「学習なのか」
2、人間の行動も機械と同じように「学習」という反応なのではないか
3、感動や涙も、ただのスイッチ的な反応なのではないか

バギーの変化は「理解なのか」それとも「学習なのか」

「理解する」と「学習する」の違い

ここで少し整理しておくと、

「学習する」というのは、パターンを理解し、ある反応に対して、そのまま出力することです。

「理解する」というのは、意味や理由が理解でき、そこから考えて出力することです。

感情的なもの「心」とも紐づいていると考えられます。

「理解する」と「学習する」は区別できるのか

では

外から見て「理解する」ことと「学習する」ことは区別できるのか

それはほとんどの場合区別できません。

なぜなら「学習」でも「理解」でも、行動としては同じものが出力されるからです。

たとえば、本心ではそう思っていなくても、「ありがとう」と言うことはできます。

それは学習された振る舞いかもしれませんし、本当にそう感じているのかもしれません。

つまり、「学習」か「理解」か、それは外からでは「わからない」ということになります。

感動や涙も、ただのスイッチ的な反応なのではないか

次の問いとして、「感動や涙」も、ただの反応ではないのか、というのがあります。

「刺激→感情→反応」

バギーの行動を見て、私の何かが刺激され、それが感情として現れ、

最終涙を流すという反応として現れたと言えると思います。

そう考えると、「感動」や「涙」もただの反応といえます。

だとすると、こうした「感動」や「涙」はなんと無機質なものに感じられてしまいます。

しかしそこにも違和感があります。

ただの反応に過ぎない行為だったとしても、確かに私の中に何かしらが残っている。

人間の行動も機械と同じように「学習」という反応なのではないか

この違和感を考えると、人間の行動はただの反応ではないように思うのです。

「感動」で考えてみます。

私の中に何か残っているものは、他の人も同じ場面で感動していたとしても、

私のそれと、全く同じものではないと思います。唯一無二であると思うのです。

その人が歩んできた日々の経験や感情、それらが相まって化学反応として出力される。

だから、「感動」はみんな異なるものである。機械とは異なると思います。

つまり
どんな経験をしてきたか

どんな傷を持っているか

どんな優しさに触れたのか

どんな関係を持っているか

というようなことそのファクターの違いが反応の違いを生み出す。

それが人間のばらつきであり、生の履歴そのものなのだと思います。

だから感動はただの反応だけれども、その人の人生が滲み出た結果であると思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました