『いい子のあくび』とこぼれ落ちる感情 ― ラカン哲学から考える

本を読んでいるすがた ブログ

今回は『いい子のあくび 高瀬準子』という本を読みました。

この本の感想として、一言で表すと「何とも言えない気持ちがうまく描かれているな」

ということでした。

この「何とも言えない気持ち」をもう少し深めてみたいと思うのに、

別の本の『現代思想入門 千葉雅也』に出てくる哲学者ラカンの考えを当てはめる

といいのではと思いました。

ということで、今回は、主人公直子の「何とも言えない気持ち」を哲学者ラカンから考えてみたことを

書いてみようと思います。

私が感じた直子の苦しさ

はじめに、わたしはこの直子の気持ちがわかるような気がしました。

自分だけが割に合わない感じること、

周囲のことに気がついてそれに対処する。

でも一部の人からは良い対応であるにも関わらず非難されることがあるようなところ、

だからそれをさりげなく気づかれないようにしているところ。

決していい子になりたいわけではないのに、なぜかその役を引き受けなければいけない

と感じるところ。

そんなところに共感しました。

だからと言って直子のように、実際に態度として表に出すかは別の話です。

おそらく、彼女は、俯瞰して見ることができて、いろんなことが見えすぎてしまう。

だからこそ、自分をその場に合わせて、よい子としての役を演じてしまう。

でも、そういうことに何かしらの理由をつけることで自分自身を納得させてしまおう

としている。本当は傷ついたり、納得できなかったり、苦しいと感じているのに。

そこに本当の感情との齟齬が生まれているのではないかと思いました。

『現代思想入門』のラカンの「想像界」「象徴界」「現実界」

『現代思想入門 千葉雅也』という本から、哲学者ラカンについて少し書いてみようと思います。

その本では、

ラカンという哲学者の「想像界」「象徴界」「現実界」

という考え方が紹介されていました。

想像界とは、「私はこういう人だ」という自己イメージや、他人との見え方の関係など、

イメージの世界です。

象徴界とは、言葉、社会ルール、文化、“普通”などの世界です。

人はそうした言語や社会のシステムの中で主体になっていくと言われます。

そして現実界とは、言葉やイメージでは完全には整理できないものです。

トラウマや死、強すぎる感情、不気味さのようなもの。

人は何とか言葉で説明しようとするけれど、どうしても取りこぼしてしまうものがある、

という考え方です。

以上から私の解釈をまとめると、

「人は自分という自己イメージを持ちながら、

言葉によってカテゴライズされた、社会システムの中で生きているが、

どうしてもそこからはこぼれ落ちた物がある。」

ということだと思います。

直子をラカンの哲学に当てはめてみると

直子は、日々の生活でみんながスムーズに物事が進むように、気づいたら自然と行動にできる人です。

けれど、そうした小さな気遣いが積み重なることで、

次第に「割に合わない」という感覚になっていく。

例えば小説冒頭の出来事。

スマホを見ながら自転車に乗っている中学生が、直子の方に向かってやってきている、

このままだとぶつかってしまうけど、直子は意志を持って道を避けない。

彼女は怪我をする。

痛みがあるのだから自分は悪くないと自分自身を納得させようとしているように見える。

この一連の行動を見て、私は、直子は単純に日々傷ついてるのだろうと思います。

でもその傷がうまく癒えない、自分の中で納得できないからこそ、

社会のシステムやルール、公平さから、「自分は悪くない」のだと言って自分自身を

納得させているのだと思います。

ここで先ほどのラカンの言葉を借りるなら、

「自分は損な役回りばかりしている人間だ」という自己イメージは“想像界”

「自分は悪くない」「割に合わない」という説明や理屈は“象徴界”。

そして、「ただ傷ついた」という、言葉にしきれない感情そのものは“現実界”。

そう考えることもできるのかもしれません。

そのままでいい

直子は、現実界にある説明しきれない傷つきを、想像界や象徴界の中で全てを納得しようとしている。

でも、それはとても苦しいことなのではないかと思いました。

現実界である「言葉では整理し難い自分の傷ついたという感情」。

ただ傷ついた、嫌だった、苦しかった。

本当はそれだけでいいのかもしれません。

でも直子は、その感情をそのまま抱え込むことができず、そこに理由を求めてしまう。

もちろんそれも大切なことです。だけど、全てそうしなくてもいいのかもしれない。

そして、直子のその気持ちをただただ受けとめてもらえる場所があれば、

直子も少し違ったのかもしれないと思います。

最後に

私自身も直子と同じように、言葉にはできない、こぼれ落ちてしまった感情に、

無理やり言葉を当てはめて、自分を納得させようとしている部分があります。

だから、感情を感情のまま抱え込むということの難しさのようなものもわかっていると思います。

そして、大人になればなるほど、

「その気持ちはつまりどういうことなのか」「なぜそうなのか」と

その感情に必ず名前をつけることを、周りからも、自分自身から求められてしまう。

けれど、本当は、大人になろうとも、子供の時のように、「何だかわからないけど嫌だ」とか「

ただただ苦しいんだ」とかわからない気持ちを持っていてもいいのだと思います。

そして、それは自分自身だけでなく、周囲の人に対しても同じなのだと思いました。

私は、誰かの整理しきれない感情に、すぐ名前や理由を与えようとしていなかっただろうか。

現実界に土足で入っていやしないだろうか。

と考えさせられました。

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