前回に引き続き、『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』についてです。
今回は、「赤根智子」さんという人にスポットライトを当ててみようと思います。
なぜ私が人柄を知りたいと思ったのかというと、テレビで彼女を見た時に、
「私が死んでも裁判官の代わりはいる」
「ICCは屈しない」
という言葉を聞いたからです。
非常に力強い意志と強さを感じました。
その時、この方を知りたいと強く思いました。
そんな中で、本書では赤根智子さんの人柄がわかるところがたくさんありました。
実際に本を読んだ私の「赤根智子さん」の印象ですが、
テレビの言葉通り、信念強さをもちろん感じましたが、それだけではなく、
物腰の柔らかい、ユーモアがある、そして人間味あふれる方だ、
という印象を受けました。
強さと柔らかさ。
この二つを持っておられる方なのだとわかりました。
そんな赤根智子さんの人柄と、そこから考えたことを書いてみようと思います。
柔らかな赤根智子さん
テレビで見た赤根さんは、とても強い方という印象でした。
だからこそ、本書を読んで感じた赤根さんの人間らしさが、とても印象に残りました。
例えば、赤根さんが2018年3月にICCの予審第二部に配属された時の話です。
第一章の「国際刑事裁判所が戦争犯罪に対峙する」の中に、
「慣れない環境で疲労困憊」という章があります。
そこで当時の心境を、
「仕事の進め方も、他人との関わり方も日本とは全然違うし、言葉はうまく通じないし、
毎日ヘトヘトでした。『日々奮闘』なんてかっこいい言葉で形容できる状態ではなく、
やれることをやるだけというか、目の前の仕事をなんとか片付けているだけ。」
と書かれています。
この文章だけでも、人柄出ているように感じませんか?
というのも、私な勝手なイメージですが、
法律に携わる方に対して、「少し硬い感じの人が多いのではないか」
というイメージを持っていました。なぜなら、法律用語は難しい言葉が多く、
甲とか乙とか、理路整然と語られるイメージがあるからです。
ですが、本書ではそうした硬い表現などなくて、赤根さんの日々の言葉遣いのようなものを
感じさせるものでした。
さきほど紹介した文の、「目の前の仕事をなんとか片付けているだけ」。という部分。
この「だけ。」というところに、なんとも言えない人間味を感じたのです。
ICCの所長と聞くと、スーパーヒーローのようになんでもできちゃう感じかと思いきや、
自ら、そんなイメージ以外の部分も赤裸々に書いているところも、決して遠い人という感じではなく、
身近な感じを受けました。
第三章「私はこんなふうに歩いてきた」も、赤根さんがどのように生きてきたのかがわかり、
とても面白い章でした。
赤根さんは少女時代、理科が大好きで、もともとは理系志望だったそうです。
さらに、人前で喋ることが苦手だということを述べた後に、
「結果的にICCの象徴などという立場になってしまって、
『ものすごく不得意な方向に進んじゃったな・・・』と内心では思っています。」
と書かれています。
これも非常に柔らかな方だなという印象を受けます。元々の希望とは、真逆の選択をし、
自分の不得意の部分も述べられており、赤根さんの内心の思いも
こんなにチャーミングに語られている。
こうしたチャーミングで、なんだか親しみを持てるような部分が本書ではたくさんあって、
テレビの報道の強さとはまた違う一面を感じることができました。
強い信念を持っている赤根智子さん
しかし、そんな柔らかさを持ちながら、さらにすごいと思うのは、
やはりテレビで受けた印象の通り、ここぞというときの信念の強さです。
本書の中で何度も出てきたのが、
「私たちは、どんな状況でも、法律のみを遵守し、独立性、中立性を保ちながら判断すること。」
という姿勢です。
法律家であれば当然のことなのかもしれません。
しかし、それをどのような状況でも愚直に曲げることなく実践するというのは、
決して簡単なことではないと思います。
そのような柔らかさと強さの両方を持ち合わせている赤根智子さん。
月並みな感想ですが、ただただすごいなと思いました。
赤根智子さんの人柄から、法について考える
そのような強さと柔らかさを持つ赤根さんの姿を見て、少し方について考えたことがありました。
実は私は、赤根さんのことを知る前から、法律というものに少し怖さのようなものを感じていました。
法は、誰に対しても同じ基準で判断するために必要なものです。
誰かの力や立場によって判断が変わってしまえば、それは法によって人を守ることとは
違ってしまうからです。
一方で、人間が生きている現実は、そんなに簡単に整理できるものなのだろうか、とも思います。
もちろん、裁判では事件の背景や事情も調べられるのでしょう。
それでも、文字として残された事実や証拠だけでは、捉えきれないものもあるのではないでしょうか。
例えば、
「私が殺しました」
という言葉があったとしても、その一言だけでは、
その人が何を思ってその言葉を発したのかまではわかりません。
憎しみからなのか。
悲しみからなのか。
誰かを守るためなのか。
あるいは、演技なのかもしれません。
人間は、言葉の意味だけではなく、その人の声や表情、その場の状況などから、
何かを感じ取ろうとします。
もちろん、それが正しいとは限りません。
人は簡単に人を誤解しますし、演技に騙されることもあります。
だからこそ、法には証拠が必要であり、誰に対しても同じ基準で判断するという
強さが必要なのだと思います。
それを踏まえた上で私は、
人間を裁く法に、人間そのものをどこまで含めることができるのだろうか。
そして、もし法だけでは捉えきれないものがあるのだとしたら、
それをどのように判断の中に含めていくのでしょうか。
そんなことを考えた時、赤根さんが本書の中で書かれていた、次の言葉がとても印象に残りました。
「もちろん、裁判が行われ、その犯罪に責任があるものが罰せられたからといって、
彼ら・彼女らの悲しみ、苦しみがきえてなくなるわけではない。
しかし、自分たちの被害が放置されることなく、しかるべき扱いを受けるということは
被害者やその家族にとって極めて重要です。
人間の尊厳を守るために、私たちはこれからも活動を続けていかなくてはならない。」
この言葉を読んで、私は、赤根さんが「誰かを裁く」ということだけを見ているのではないよう
に感じました。
その出来事によって傷ついた人がいる。
声を上げることさえできない人がいる。
その人たちの存在を置き去りにしないことも、法の役割なのではないか。
そんなふうに感じたのです。
もちろん、これは法律について何も知らない私が、本書を読んで感じたことにすぎません。
それでも、赤根さんの「強さ」と「柔らかさ」の両方を知ったことで、
私は以前から感じていた法への怖さについて、もう一度考えてみたくなりました。
法には、誰に対しても同じように適用するための強さが必要です。
でも、その法が向き合う相手は、決して単純な存在ではない。
だからこそ、法を扱う人には、揺るがない姿勢と同時に、
目の前にいる人間や、その背景にあるものを見ようとする柔らかさも必要なのではないでしょうか。
赤根さんの姿を見て、私はそんなことを考えました。
そして、ここから先は、そもそも「法」とは何なのか、
ということをもう少し考えてみたいと思います。

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