今回はドラマ『Tシャツが乾くまで』を観てこの話、
以前読んだ本『本心』 と通じる部分があるなと感じました。
どのような部分が共通点かというと
「本心」は誰にも完全にはわからないし、人の見方次第で、人の印象はいくらでも変わってしまう。
ということです。
そしてこれは平野啓一郎が言っている「分人主義」の考え方そのものではないかと思いました。
今回は、この部分について考えて見たことを書いてみようと思います。
注意:『Tシャツが乾くまで』のネタバレ的な要素が入っていますので、それが嫌な方は読むことを控えることをおすすめします。
ドラマ『Tシャツが乾くまで』の人々と分人主義
『Tシャツが乾くまで』を最後まで見た方はご存知だと思いますが、
このドラマに出てくる人々は、人には理解し難いような秘密を持っていたり、
他者から見たら勘違いされるかもしれない既婚者の男女の友情のような関係、
というようなものをもっています。そして、これらを例えば夫婦間で伝えたとしても
理解してもらえないだろうと思っています。そして、特に自分が大事にしたい人、
特別な関係性で、そうした関係性を壊したくない、大切にしたいからこそ、
明かすことができない状態にありました。
それとは逆に、そのような深い関係性ではないからこそ、なんでも言えるという部分もあります。
そういうことが描かれていたドラマだったと思います。
そのような感覚私たちにも日常的にあるのではないでしょうか?
例えば、会社の愚痴を言いたい場合。同じ会社の人に言うと変に深刻な方向になったり、
気を使って話したりして、本来の趣旨とは異なるような言い振りになる。
それとは逆に、全くかけ離れたコミュニティーで話す方が、心の底から思ったことを言えたり、
その愚痴がただの本当の愚痴で済むと言うようなこと、
そして、違うコミュティーだからいいやすいと言うようなことです。
このように、ドラマと同様に、
人は場所によって、自分の在り方を変えるということを自然と行なっています。
そして、そのどのあり方も「自分」であるのです。
このようなあり方を平野啓一郎は「分人主義」と言いました。
詳しくは↓

『本心 平野啓一郎』 本心はわからない
この本に関しては以前、ブログで書いたので、詳しくはそのブログも併せて読んでもらえれば
いいかなと思います。
この話もドラマと通じる部分があり、
自分の知っている母と、自分の知らない母の在り方、そこに戸惑いをもつ息子の心のあり方
が書かれた本でした。
息子が知っている母とは異なる母のあり方を知り、理解できなかったり、
それによって悩んだりします。本心とは一体何かを考える物語。
そして、自分の持つ常識のようなものから外れた母のあり方にどう考えればいいのか
と問い続け物語でもあったと思います。
ドラマ、本の共通点
ドラマ、本でもあるような、
こうした分人的なあり方は、誰にでも存在して、誰もが行なっていることです。
それなのになぜかそれを相手には、自分に見せている顔だけが本当であると
思い込んでしまう部分があります。
そうしたいろんな顔を持つあり方と、その人の中の特異的な考え、あり方、癖みたいなもの
これら二つが相まって現れた相手の姿、それと、世の中の常識、もしくは自分の中の常識から
外れたものを、理解できなかったり、否定したり、拒んだりするということ、
これもドラマ、本にも共通することだったと思います。
夫の前では、元気に振る舞っていて幸せそうなのに、違う場所で男の人と話していると、
それは不倫していると考える。それは結婚した男女が決まった日に楽しそうに話してたら、
それは不倫であるという自分の中の常識からの逸脱、
自分には見せてなかった姿を別の人に見せていること、こうしたことで混乱したり、
理解できなかったりするのです。
自由死を選ぶなんて信じられない、どうして母はそれを選んだのか?
また自分が知っている母とは異なる姿を、他の人に見せている、
それは本当に母なのか疑心暗鬼になるというように。
「恋愛フィルター」ー自分のバイアス
ドラマの中で、「恋愛フィルター」という言葉が出ていました。
ドラマのタイトルの「洗濯」に関する部分と相まって巧みだなと思いました。
「洗濯機のフィルター」にちなんで、
フィルターとは「見たいものだけを通し、見たくないものを濾し取る」装置である
というメタファーですよね。
恋愛や親密さという感情は、相手のある側面を強調して見せ、別の側面を見えなくしてしまう。
そのようなことからも、
本心というものは実はなくて、それを探そうとすること、見つけ出そうとすることが
もしかすると的外れなのかもしれない。
その一つの理由として、フィルターという名のバイアスがあるということもあるでしょう。
では、「本心」とは何なのか
それは、そもそも「本心」というものは、本当に一つのものとして存在するのだろうか、
ということです。
私たちはつい、「本当はこの人はどう思っているのだろう」と考えます。
表面ではこう言っているけれど、本当は別のことを考えているのではないか。
この人が見せている姿と、本当の姿はどちらなのだろう。
そんなふうに、「本当の自分」と「それ以外の自分」を分けて考えてしまいます。
けれど、分人主義の考え方からすると、そもそもその「本当の自分」すらないのかもしれません。
会社で見せる自分も、家族の前で見せる自分も、友人といるときの自分も、
一人でいるときの自分も、すべて自分である。
だとすれば、「どれが本当の自分なのか」と問うこと自体が、少し違うのかもしれません。
もしかすると、「本心を見つける」のではなく、
「その人には、自分には見えていないその人がいる」
ということを受け入れるほうが、他者を理解するということに近いのかもしれません。
で、私はどうする?
私たちは「フィルター」という名のバイアスを自分に常に持っていて、
それを基準に物事を見て、判断しているのです。それは誰しもが持っているもの。
だからこそ、
そのことに自覚的であり、自分の考えを少し疑ってみる
立ち止まってみるということ
が大切なのだと考えます。
そして、他人の考えを受け入れられないとしても、
私には見えていないこの人のあり方が存在するのかもしれない
と考えれるのではないかと思います。
大切なのは、
フィルターを持っているということ、
そして
自分とは異なる考えが、あり方が存在しているのだということ
だと思います。
自分が見ているのは、本心ではとかではなく、その人の一部である。
そのことをこの二つの作品から感じました。


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