『ふつうの子ども 呉美保』の映画を観て考えたこと。

学校の風景 ブログ

今回は映画『ふつうの子ども 監督呉美保』を観ました。

子どもを持つ親として、この映画の世界観はリアルであり、私ごととして考えられました。

また役者さんがとても興味深く愛らしくて、非常に面白く観ることができました。

そのような中で、私が考えたことを書いてみようと思います。

ストーリー

映画『ふつうの子ども』の公式サイトのストーリーによると

上田唯士(ゆいし)、10才、小学4年生。両親と三人家族、おなかが空いたらごはんを食べる、いたってふつうの男の子。最近、同じクラスの三宅心愛(ここあ)が気になっている。環境問題に高い意識を持ち、大人にも臆せず声を挙げる彼女に近づこうと頑張るが、心愛はクラスのちょっぴり問題児、橋本陽斗(はると)に惹かれている様子。そんな三人が始めた“環境活動“は、思わぬ方向に転がり出して――。

とあります。

主人公「唯士」は本当にThe小学生という感じで、子どもらしい男の子です。

観ていてホッとするというか愛らしいそんな子どもです。

彼の友人も、虫好きな子どもだったり、公園でワイワイはしゃいだりするそんな子どもたちです。

そしてそんな「唯士」が、この映画で深く関わっていくのは、

彼とは全く逆のタイプというか大人びた「心愛」であり、

子どもらしさが超えてしまったような「陽斗」なのです。

そんなストーリーと登場人物の中で、私は

「子どもを子供らしい時間で過ごさせてあげれているのか」

ということを思いました。

4つの視点で書いてみようと思います。

学校のあり方ー特殊な空間

学校という場所は、非常に特殊な空間だと思います。

まず同じ部屋に40人近くの同じ年に生まれた人がいて、それを一人の先生が見なければならない。

この現状は、結構難しいことではないかと個人的には思います。

家庭でも、子どもたちを育てるのに非常に大変です。

だから、多くの場合は、先生が力でもって統率するか、もしくは子どものことを適度に見ると

いうことしかできないのではと推測します。

それに加え、親からの要求やプレッシャーのような力も働いていると思います。

実際この映画の中で、

唯斗の担任の先生は、心愛の作文で、大人に対して批判的な環境問題の作文を読み上げます。

それに対して、先生は適度にあしらっている感じがしました。

そのほかでも、生徒と向き合うというよりは、

どうしても大人の管理や効率が優先されてしまっていると感じました。

それは、子育てしていても同様のことは起こっています。

だから先生の気持ちも非常にわかります。

そうしなければならない環境という点で、非常に特殊で、難しい空間であると想像しました。

しかしその中でこそ、本来もっとも大切にされるべき子ども自身の声は、

置き去りになりやすいのではないかとも感じました。

子供らしさについてー衝動的で未完成

この映画を見ながら「子どもらしさとは一体どんなものなのか」考えてみました。

今回この映画では、唯士(主人公)は、好きな女の子「心愛」との距離を近くなりたいという思い

にまっしぐらになってしまう。いろんな行動を楽しんでやっているけど、あるタイミングから、

いけないことかもしれないと思いながらも、自分の思いの方を優先して行動してしまう。

これはまさに「子どもらしさ」が悪い方向に向かった場合ではないかと思います。

また、その行動が危険であればあるほど楽しくなったり、その行動に熱中してしまうという

側面もこの映画を見ながら、子供あるあるだなと思ったりしました。

良い意味で言えば、好奇心旺盛で、自分の心に正直で、そして一つのことに集中できる力

を持っている。こうした衝動的で未完成な姿が子どもらしさだとするならば、

それらをすべて否定的に捉えるのもまた違うのではないかと思います。

こうした子どもらしさというのは時として、

大人の都合によって、「悪いもの」と判断されてしまうものでもある。

そうことを知る視点も必要だと思います。

まだ別の視点を書いていきたのですが、少し長くなるので今回はここまでにしようと思います。

次回は、大人について、大人にさせられてしまった心愛、(仮)ということについて書いてみようと思います。

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