今回も前回に引き続き『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない 赤根智子』をよんで
考えたことを書いていきます。
今回は、第二回目の最後に残した問い、「法とはなにか」でした。
その疑問の核にある私の問いは、
「法とはどこまで人々を掬い取れるのか」
ということでした。
どういうことかというと
法律とは、文章で細かく書かれている、それをもとに裁判が開かれる。
裁判とは、いろんな「事実」を元に検証し、そして法に照らし合わせながら、
判決を下していくものだと理解しています。
その中で、私が気になるのは、
「事実」というものはどこまで掬い取れるのか、
それぞれの細かな人々のありようをどこまで想定したものであるのか、
ということです。
それらの疑問について、法について何も知らない私が考えたことを書いてみようと思います。
私が思う法の怖さ
法律というのは非常に重要なものであります。裁判の基準と言えるものです。
その中で、私が一番怖いと思っているのことは、「切り取り」ということです。
はじめにも書きましたが、裁判の流れとして、はじめに「証拠」をたくさん集めてそこから
「事実」を導き出し、いろんな議論を進めていくのだと思います。
ですが、その「事実」は、ある「断片」を集めているに過ぎないと思います。
本当にあったこと、つまり「事実」というのは、
いろんな流れの中で、いろんな歴史の中で(世界の歴史、その人の歴史、その場所の歴史など)
多重に絡み合ったものです。
だから、ある時点のある一つをとりだしても、実際はそれが本当の「事実」にはならないのでは
ないか、細かくみていくと、人間の行動には背景があり、事情があり、ましては、
本人にも説明できないようなものまであります。
そうした中で、法は、どこかで「これはこういう事実である」と切り取って判断しなければならない。
そこから私は、
「人間を守るために作られた法だけど、人のある一部分だけ切り取ってしまい、
判断される可能性はないのか?」
という怖さが出てきました。
怖さからの脱却のヒント
そんな中で、赤根さんの言葉が私の心に留まりました。
それはある文章です。かいつまんで書いてみると、
ICCの存在が、事件の被害者たちにとって希望の灯りとなっていた。
裁判が行われて、犯罪に責任があるものが罰せられたとしても、
彼ら彼女らのの悲しみや苦しみは消えない。
というようなことがあって、
「しかし、自分たちの被害が放置されることなく、しかるべき扱いを受けるということは
被害者やその家族にとって極めて重要です。
人間の尊厳を守るために、私たちはこれからも活動をつづけていかなくてはならない」(本書引用)
とあります。
ここから私はICCも法をもとに裁いていくという中で、
赤根智子さんが行なっていることは、
被害を無かったことにするのではなく
被害を受けたけれども、それが声にならない
もしくは
声にあげても届くことがないような、小さな声を拾い上げること
耳を傾け、法を持って責任を問う
そういうことなのではないかと思いました。
つまり、赤根智子さんが大事にされているのは、
裁くことが目的になるのではなく、
そうした小さな声を拾い上げることつまり、尊厳を守るためことに重きを置く。
ということではないかということです。
そこから、そうした赤根智子さんの考え方によって、私の抱いた恐怖が少し緩和されるたように
思います。
共に生きるための境界性
そうした、法を目的にせず、尊厳を守るという視点を得たところで、
もう一度、法、そして国家、社会のルール、みたいなことについて考えてみました。
そもそもこれらはどうして作られる必要があるのか。
それは私が考えるに、
どのような立場の人でも共に生きられるようにするためのものではないか
ということです。
法や国家、社会のルール、これらは境界線を作ります。
そのようなものが全くない世界は自由に感じる。そんな自由な世界に境界線を引く。
それによって少し不自由になったように見える。
だけどもしも境界線がなく、自由であれば、力関係で強いものが有利になってしまう。
そこに境界線があることで、力が強くなくても、共に生きていけるという状態に近づく。
そのような形があるのではないかと思います。
あっち側とこっち側
でもここでまたしても考えてしまう。
良かれと思って引かれた境界線。そうすると、その境界線を境に、
こちら側とあっち側が生み出してしまう。
例えば
「日本人/外国人」
「ルールを守る人/守らない人」
国家ならわかりやすいので、それを例えて考えると、
これからはグローバルだ、世界は一つだといいながら、
問題が起きれば、国という単位で線を引き、結果的には閉じたものになり、
あちら側、こちら側という形を生み出します。
これがいいとか悪いとかではなく、どうしてもそうした線引きが生まれてしまうことは否めない。
何が言いたいのかというと、
本来の目的は、小さな声を救おう、人々の尊厳を守ろう、という形で、境界線が作られる
けれどもそれがときには、別の形で使用されてしまう側面があるのではないかということです。
そうすると、本当にすべてが掬い取れるのか、どこまで人々の声を拾い上げれるのか。
再び疑問が残ります。
ICCのあり方から考える
こうして考えている中で、助っ人としてAIと話している中で、おもしろいことを言ってくれました。
それは「ICC自体が国家のさらなる境界性になるのではないか」ということです。
どういうことかというと、
ICC国家という境界線だけでは裁けない犯罪がある。
だから、その上にもう一つ、「国際法」という境界線を作る。
国家の中で権力者を裁けない場合に、その外側から法によって責任を問おうとする。
つまりICCは、
国家という境界線からこぼれ落ちるものを拾うための仕組み
とも見ることができるというのです。
そして別の観点で、面白いことに、
ICCも国家の協力がなければ逮捕などを実行できない。
すると今度は、
国家を超えようとして作られたICCも、国家という境界線に依存している。
という、とても面白い矛盾が出てくると言っています。
このことから、私は、
そもそも一つの法が全てを掬い上げることができるわけではないのではないか?
そして境界線は全てを切り分けることはできずに、そこには相互の依存や関係性が
立ち現れるのではないか
ということです。
だから、法や国家、社会ルールなどの境界線は必要です。それを守ることも必要です。
だけれども、その境界線が絶対的なものとして固定せず
こぼれ落ちるものあるのだということを前提に、そのこぼれ落ちるものが何であるか
を考えること。
そして、その境界性には「あわい」があるのだとそこに目を向け続けることが
大切なのではないかと思います。
ここでいう「あわい」を具体的にいうと
判断することと、理解しきれないことを認めること。
犯罪の責任は判断する。それでも、その判断によって人間の全体を理解したと思わない。
ルールを適用することと、ルールの影響を問い直すこと。
ルールを守る必要性を認めながら、適用によって不当に不利益を受ける人がいないかを確かめる。
制度を維持することと、制度の外側を見ること。
制度が機能しているかだけでなく、制度にアクセスできない人や、
声を上げても届かない人がいないかを考える。
であると思います。
その考えは、さきほど考えた赤根智子さんの大事にされていることと非常に重なる部分
であると考えました。
法は、人間のすべてを掬い取ることはできないかもしれない。
それでも、掬い取れなかったものがあることを忘れず、その声に耳を傾け続けること。
今回、赤根智子さんの言葉を通して、私はそのような法のあり方を考えました。
そうしたことからも、「法を使う人」、その人自体の倫理観も重要なファクターで
あるように感じました。

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