本『本心』と映画『箱の中の羊』のVFとアンドロイドのあり方を考えてみた

ロボット ブログ

今回は前回に引き続き、本『本心』を読んで考えたことを考えてみたいと思います。

以前に見た映画『箱の中の羊』と似ている部分があるなと思いました。

それは、死んだ人のVF、アンドロイドによって、

残された人の心が供養されているのではないか

ということろです。

私の考える供養とは

私が考えている供養とは、宗教的なものとは異なります。

私が考えている供養は「生者の心の整理・折り合いをつけること」というようなことです。

それは、

グリーフワーク(喪の作業)

大切な人との死別などによる深い悲しみや喪失感と向き合い、

時間をかけて心の整理をして立ち直っていくための心理的なプロセス

です。

二つの物語を比較してみる

この二つの物語の共通点を再び考察すると

VF ,アンドロイドというものが死者を蘇らせるだけではなく、

死者がいなくなった現実に、生者の心を追いつかせるための装置として働いている

つまり、供養としての働きが大きいということなのではないか

ということだと思います。

『本心』分析:VF=自分の内面の投影/母の多面性を知る過程/対話が減っていく意味

『本心』では、朔也が死んでしまった母をVFとして蘇らせました。

そこには、どうして「自由死」を選んだかを知りたいという気持ちも含まれていました。

VFは母の記憶を元に作成されているのですが、決して生きていた時の母ではありません。

だからこそ、朔也はVFの母の口調や考えが異なると感じると、

「生前の母だと言わない」、「そんなことはしない、考えない」と思うことがたびたびあります。

そして、朔也は「そんなことは母はいわないよ」とVFの母にいいます。

これは、自分自身のなかにある母像を思い出したり、自分の中の記憶にVFの母を合わせようとしている

のではないのか思います。そしてそれは、ここには存在していないものに、

彼の想像通りにしたいという気持ちの表れであると考えます。

それと同時に、彼の心の中で、「母はこうである」「こうしてくれる」ということを、

整理しているのではないかと思います。

つまり、自分の内面を投影しているのだと思います。

彼は、母が自由死を選んだ理由を知りたいと、母の担当医に会いに行ったり、

母の仕事場の友人であった人に会いに行き話を聞きます。

その中で、彼が知らなかった母の事実、

そして、(人間なのでその場その場で別の顔を持っていると思いますが)、

母が多面性をもっていたという事実に直面するのです。

それに混乱し、受け入れることが難しいけれどいろんなことを考える。

自分の悲しみの中で、こうした体験を通して、混乱した心の中を整理しているのではないか、

またそうした心を一つ一つをVFの母や母の友人にぶつけることで

心を落ち着けているのではないかと思います。

これ自体がまさに、供養=グリーフワークではないでしょうか?

本が終盤になる頃、気がつけば彼はあまりVFの母と話さなくなっていきます。

それは上記に挙げたような行動、つまりグリーフワークによって、

自分の中の何かが整理された、もしくは折り合いがついてきたのだと思います。

だから、VFの母が必要無くなっていきたのかなと思いました。

そうした流れからも、VFの母は、母を生き返らせたいということではなく、

母のいない現実を受け止める、もしくは整理するための装置として働いたのではないかと

思いました。

映画『箱の中の羊』の分析ーアンドロイド=真実の代替にはならないが、心を宥める役割

映画『箱の中の羊』は、子供を亡くした夫婦健介と音々が息子翔ににたアンドロイドを迎え入れます。

この映画の一つのエピソードとして、健介の視点を書いてみます。

健介はアンドロイドを迎え入れることに良い思いを持っていませんでした。

ある日、健介とアンドロイドの翔が二人でいたときに、翔のように江ノ電の駅名を暗唱し始めます。

そこで健介は動揺し、アンドロイドの翔を「機械だ機械だ」と自分に言い聞かせると

いうシーンがあります。

健介は、翔が死んだのは事故ではなく事件だと思い込んでいます。

あんな中、翔が亡くなった日に行った場所や事故現場に、アンドロイドの翔といっしょにいき、

健介が、アンドロイドの翔に何かを覚えていないかと確認するのです。

でも結果としてはなにもわからないのです。

ただそのときに、アンドロイドの翔がある言葉をかけることで、

健介のずっと抱えていたわだかまり、苦しみみたいなものが解き放たれるのです。

健介は、はじめはアンドロイドの翔のことを機械であると思い、

途中は自分の記憶の中の翔と重なり、アンドロイドの翔が、本当の翔だと思ってしまうことがあった。

そこから、自分の中のわだかまりというかひっかかりを自分自身で検証しながら、

それにより健介自身が整理されたり、またアンドロイドの翔の言葉によって、

救われたのではないかと思うのです。

(詳しくは別のブログで記載したのでそちらを見ていただければと思います)

「スキーマ」という視点から読む映画『箱の中の羊』後編
今回は前回のスキーマ(私はOSに似ていると思った)の話をしました。そこから今回見た映画『箱の中の羊』でスキーマに紐づいた部分があったのでそのことについて書いてみようと思います。映画の内容を含むので、ネタバレになってしまうかもしれませんので、...

こうした行動もグリーフワークであり、供養されたということではないのかなと思ったりしました。

自分の心を整理する瞬間が必要

突然の死であればなおさらですが、そうでなくても人が死んでしまうということに、

人は心が追いつかないということがあると思います。

だからこそ、そうした残されたものの心のあり方を、うまく調整するというか、

自分の心と現状の足並み合わせる必要があるのだろうと考えました。

そうした中で、この2作品はVFやアンドロイドというような形で、

これらは本物ではないと思いながら、対話したり、暮らしたりしながら、

過去と現実とをつなげながら、また自分の内面を知ることで、心のあり方を調整しただろう

と思いました。

この二つの作品に登場するVFやアンドロイドは、死者を本当に蘇らせるものではありません。

むしろ、死者を失った生者が、もう一度その人との関係を確かめ、記憶をたどり、

自分の中に残っているものと向き合うための媒介になっていると思います。

そう考えると、VFやアンドロイドは「死者を蘇らせる装置」というよりも、

「死者のいない世界を生きていくための装置」と言えるかもしれません。

そして私は、そこに一つの「供養」の形を見ることができるのではないかと思いました。

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