今回は前回のスキーマ(私はOSに似ていると思った)の話をしました。
そこから今回見た映画『箱の中の羊』でスキーマに紐づいた部分があったので
そのことについて書いてみようと思います。
映画の内容を含むので、ネタバレになってしまうかもしれませんので、気をつけてください。
また、以下映画のことに触れていますが、一度しか映画を見ていないため、
もしかしたら間違っている部分があるかもしれません。
これは私の記憶の限界ですので、やさしい気持ちで読んでいただければ幸いです。
思い出の写真で生み出されたヒューマノイドの翔
このお話は、すごく簡略化すると、甲本音々と健介という夫婦がいる。
二人の息子翔は、二年前に亡くなっている。
そのような事故や事件で家族を亡くした遺族に、ヒューマノイドをレンタルするサービスで
、二人は翔のヒューマノイドを迎え入れることに決める。そこからの人間模様などが描かれています。
ここでヒューマノイドを迎え入れるのに必要なのが翔のデータです。
例えば思い出の写真とか、動画などです。
甲本音々と健介は、翔のデータとしての写真や動画など、
自分たちの「残したい」と思っているものが選別されていました。
それは、生きていた頃の翔の全てのデータというよりは、
自分たちの主観が大きく影響していると思います。
さらに言えば、写真や動画それ自体、その人が「撮りたい」と思った瞬間を切り取ったものです。
だから翔のヒューマノイドは、
家族が「残したい」と思った偏りのある翔が形作られていることになります。
そこには家族のそれぞれの願い、エゴさえも入り込んでいるのかもしれません。
これらをみて私は前回のブログで書いた「スキーマ」を思い出しました。
自分がこれまで経験してきた知識の枠組みを通してみたり考えたりしている。
自分の見たいものを見たいようにみている。
ヒューマノイドで必要な翔のデータも、家族のスキーマ(特に映画内では良い思い出)であり、
それによって生まれた翔のヒューマノイドは、
翔そのものではなく、少し歪な存在としてたちあらわれてくるのかもしれません。
それぞれの人々のスキーマで見ている翔くんの死、そして苦しみ
甲本音々と健介、そして音々の実母が直接的ではないのですが、翔の事故に関わっています。
それによって、3人それぞれ、心の奥に苦しみがあります。
そこでも私は「スキーマ」の存在を感じました。
それは、「翔の死」という一つの事象に対して、家族それぞれ異なる見方をして、
それによって考えや想いが異なっているということです。
具体的には(私の映画の記憶が少し朧げなのでまちがっているかもしれません)
事故のあった日、
甲本音々は、実母が突然やってくることになり、翔を保育園に迎えにいくことができない、
その時もしも迎えにいれていればこんなことにならなかったと思っている。
そして、それは実母のせいだと思っている。
甲本健介は、自分がパチンコをせずに約束通り迎えに行っていれば、
こんなことにならなかったのかもしれないと思っている。
そして音々の母もあの日突然やってきたことに責任を感じているような雰囲気がある。
このようにそれぞれの立場から、それぞれのことを思い、責任と後悔を感じている。
そしてそのことについて、二年間互いに深く話すことができてなくて、
それぞれの「スキーマ」でみている「翔の死」をずっと持ち続けている。
そのように映画を捉えることができるなと思いました。
2種類のスキーマ ー保存と解釈ー
この映画では2種類のスキーマが出てきます。
一つ目は、過去を保存するスキーマです。
どんな写真を残し、どんな記憶を未来へ受け渡したいのか。
その選択にも、私たちの知識の枠組みが表れます。
二つ目は、過去を解釈するスキーマで、
「翔の死をどのようにみているのか」というもの過去を解釈するスキーマです。
同じ出来事であっても、それぞれが異なる意味を与え、それぞれ異なる後悔を抱えています。
これらの共通点は、スキーマの特徴である
「人は客観的な事実ではなく、自分のスキーマを通して世界を見ている」
であるということだと思います。
自分の枠組みを通して世界を見ているけれども、
この映画で言えば、翔のヒューマノイドが、それぞれが抱えていた後悔や
、互いに語ることができなかった二年間の空白、
その隙間を少しずつつないでいったように思うのです。
例えば、健介は翔のヒューマノイドに、本物の翔の一旦をみせてもらったり、
事件の日の行動を翔のヒューマノイドと歩くこと、見ることで、犯人を見つけようとすることで、
埋められなかった思いを再び整理していったのではないでしょうか?
音々母も翔のヒューマノイドが出かけていく時に「気をつけていきんさい」
(だったと記憶しているのですが)と声をかける。
翔がいたら、当たり前に声をかけれていたということを翔のヒューマノイドに行うことで、
自分の心の穴を少し埋めていったのではないか?
音々は、建築の話をしたり、翔がいたらしていたであろういろんな日常的な出来事をすることで、
してあげたかったのにしてあげられなかったことに対しての思いを紡いでいったのではないでしょうか?
私はそのように思います。
そうして互いの感じたこと、思ったこと、つまり互いのスキーマを共有することで、
それまで埋められなかった心の隙間をつないでいっている。
そして、その穴が完全に埋まったわけではないけれど、
穴を抱えたままでも前を向いて歩いていけるようになった。
そのような物語だったのではないかと思います。
これは、ヒューマノイドと私たちの話のようにも見えますが、私たちが後悔や苦しみを抱えるときどのように、それらを抱えながら、前に進めるようになるのかということを考える話でもあったような気がします。その手がかりとして一つ、「スキーマ」という視点があると思いました。また、スキーマを通して物事を見て、苦しみ後悔があるとしたなら、それらを互いに共有すること、別の経験をすることでスキーマ自体が揺らぎ、変化できるかもしれないと思いました。

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