今回も、映画『小学校〜それは小さな社会〜』を観て考えたことを書いてみようと思います。
前回は、映画を観て私の感じた違和感を書いてみました。

私が感じた違和感は、あくまでも映画の中のある一部分の中のものです。
本当は先生と子供達の関係性があり、それまでの積み重ね的な日々の連続があり、
その流れの中の一つの表れとして、私が見た映画の一部があるのです。
そのことは忘れてはいけないなと思います。
ある一部分だけをみて、「違和感だ」とするのではなく、
別の視点から解釈する必要があるのではないかと思います。
なので今回「違和感」をしたものをもう少し深掘りしたいと思います。
私が感じていた違和感
私の違和感としてあげていたものは、
「静かに」「時間通り」「曖昧な表現」
でした。実はこれって私も子供たちによく使ってるものです。
自分でもよく使っているという自覚があるので、できるだけ具体的に子供達に伝えるように
努力しています。ですが、自分自身に余裕がないとか、外出先で周りに人がいるなどと言うときは、
それらが口をついて出てしまいます。
先生は、一人に対して30人以上を見なければならない。
皆が好き勝手に行動すれば、それはクラスとして物事を進めるのに大変であることは
容易に想像ができます。
だからこそ、先生たちが「静かにしなさい」「時間厳守」と言ったり、
「曖昧な表現」を使っていること、徹底していることは、痛いほど理解できます。
そんな私があれこれ言うべきではないのだけれども、
それをよしとして進めることにもやはり違和感が残るのです。
なぜ私が違和感を感じるのか
ここまで理解していて、どうして違和感を感じるのか?
それは
そもそも子供というのは静かにしている生き物ではない
と思うからです。
子供の世界は未知に満ち溢れ、その発見を共に分かち合いたい、伝えたい、表現したい
そうした生き物だと私は思っています。
しかし、実際子供達が思い切りそれらを発散する場がなくなってきているというのが現状です。
だけれども「小さな社会」に1日のうち大半いて、そこでもやはり「静かに」を求められる。
子どもにとって、どこか息苦しさや窮屈さがあるのではないかと感じてしまう。
私が映画で見た僅かな部分であり、生活を切り抜いたものだから、
もしかしたら「静かに」は限定的かもしれません。
私は学校でちょっとしたお手伝いをしていることがあります。
その際も、先生は常に「静かに」を徹底している印象でした。
子供たちのあり方とは真逆の「静かに」が学校では強く行われているのだと思います。
「曖昧な表現」と「時間厳守」
「曖昧な表現」も「早くして、時間だよ」と言うことも、私が子供にやってしまっていることです。
「曖昧な表現」を用いて、大人が導きたい答えに誘導している。
時間ばかりを重視して、子供たちの行動の流れを見ていないこと。
(大人の都合で無理やり終わらせようとするようなこと)
私たち大人がされて嫌なことだけど、子供には強要してしまうことがあります。
曖昧な表現をやめようと思っていても、その言葉が意味することを具体的に言おうとしても、
子供は長い話は聞けない、聞かない。だからこそ「短く伝える」ということが必要もあります。
そこからも先生が、曖昧な言葉とか、感情的な言葉で子供達に伝え、
子供を動かそうとすることも十分に理解できるのです。
そうしなければ、クラス運営ができない。
構造的な問題でできないというジレンマを抱えてしまっている。
だけど、大人が言っている意図を汲んでやるしかないなと子供が感じたら、
その方法を子供覚えて、同じことが行われるでしょう。
結果空気を読んだり、同調圧力につながっていくのだろうと思ったりもするのです。
ではどうしたらいいのか。はっきりとした答えは分かりません。
でも、自分が感情的な言葉や曖昧な言葉で人を動かそうとしているな、
という自覚や意識することは一つの答えであるのかもしれません。
構造的な問題とジレンマ
こうしてみていくと、
問題は、誰か一人のやり方ではなく、そのようにせざるを得ない状況そのものにあるのだ
と思います。
先生たちは構造的なジレンマのなかで、「静かに」「時間厳守」「曖昧・感情的な表現」
を使わざる終えない部分もあるのだろうと推測します。
だけれども、映画の副題にもあるように、学校が「小さな社会」であるとするならば、
先生が日々行なっている指導が、「大きな社会」につながり、社会のあり方になるということは
頭の片隅に置いておく必要があるのではないかと思います。
それと同時に、親である私は、「小さな社会」にだけに、全ての教育や生活を担わせるというのも
また違うのだと思います。
違和感を感じたら、それを子供とともに考えたり、話したりすること、
そして、いろんな社会の中で子供達を育んでいくという視点が必要だと思いました。

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