『ふつうの子ども 呉美保』の映画を観て考えたこと。パート2

学校の風景 ブログ

前回に引き続き、映画『ふつうの子ども 呉美保』を観て、思ったことを書いてみようと思います。

前回の思ったことと合わせて、「ふつうの子ども」で、子どもでいられることとしてできることは

なんであるかということを少し考えてみたいと思います。

大人ってこうだよねー大人時間と価値観の押し付け

この映画を観て考えた「大人らしさ」というか「大人ってこうだよね」ということについて

考えてみました。

大人というのは、

子どもたちに大人時間を当てはめてしまったり

自分の価値観を知らぬ間に押し付けてしまっちゃってる部分がある

ということでした。

映画のシーンで印象的だった大人の振る舞い

子どもの純粋さと大人の価値観の押し付け

日常のことを作文にして発表しましょうという宿題が出て、それをみんなの前で発表するシーン。

唯士が書いた作文は子ども目線で思ったことをどんどん羅列している形式でした。

その一つで、「うんちをしたら紙で拭く」という小学生らしい発表をします。

そうすると、もちろん「うんち」などのワード大好き小学生たちに笑いが起きます。

そうすると、先生はそれを「ふざけるんじゃない」と注意をします。

これは、私個人的には、先生の価値観を押し付けたパターンではないかと思います。

私が推測するに、先生には、今回の作文がどのように書くのが望ましいのかという答えが

あるのだと思います。それとは異なり、「うんち」という先生視点ではふざけているような

ワードを出したことで先生は注意をしたのではないかと思うのです。

もちろんそうしなければならない先生の立場も理解できます。

指導するものとして、みんなが「うんち」だなんだと言っていたら、困るでしょう。

しかしながら、唯士の作文全体を聞いていたら、真面目に書き、

堂々と発表していたように私には見えました。そうした時、唯士の気持ちはどうでしょうか。

子を守る親、決めつける親、子供たちの声はどこに?

別のシーン。映画終盤、問題を起こした子供達は親と共に学校に集められました。

その時、親たちは自分たちの主張を話出します。子どもを守りたいがために、自分の子どもが

言ったことを信じきって、自分の子供は悪くないというような主張をする親。

かと思えば、うちの子が仕掛けたのだと言って、一方的に自分の子を叱ったりする親。

そして、この会を早く終わらせようとする。

この空間には、問題を起こした当事者である子どもたちの声が、ほとんど存在していませんでした。

この状況は、私も含め大人にありがちなのではないでしょうか?

大人時間に当てはめ、本当の声を拾い上げることなく、ことを勧めてしまう。

大人の勝手な決めつけがあったりする。

こうして映画で第三者的に見てみると、この状況がいかにおかしいのかということに気づけます。

しかし実際自分がその当事者であったり、時間に追われていたりしたら、

その違和感をきちんと理解できるのだろうか。そんなことを感じさせるシーンでもありました。

私が思うこと

私たち大人は決められた時間に決められたことをこなさないといけない。

それに対応しなけければならないし、効率を重視されるという大人時間を過ごしています。

しかし、子どもの時間は本来はそれとは真逆のあり方だと思います。

「非効率」をたくさん体験し、そこから何かしらを感じるものだと思います。

だから大人時間と子ども時間では全く異なる時間軸を持っているのです。

小学校はそうした大人時間に対応できるようになるための一歩めのスタートなのでしょう。

だから、学校の先生、ましては、親でさえも、

良い悪いという判断を、素早く行い、それを適応してしまったり

大人時間を子供に押し付けてしまうのだろうと思います。

それは、マルチタスクをこなさなければならない多くの大人の生活の設計上、

仕方のない部分もあるでしょう。

これが難しい部分だなと思わされます。

そして、こうした大人の時間や価値観の中で、子どもは知らないうちに

「大人にならざるを得ない」状況に置かれてしまうこともあるのかもしれません。

早くに大人にさせてしまってはいないだろうか?ふとそんなことを考えさせられました。

引き続き、この「大人にならざるを得なかった」心愛の考察をしてみようと思います。

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