悲しみからの変容ー3冊の本から『ケアの物語』『利他ケア傷の倫理』『中動態の世界』から

本を読んでいるすがた ブログ

私たちが生きていれば、悲しくなるような出来事が起こることがあります。

そしてそのようなことが起こった時、

「どうしてそれが起こったのか」、「なぜそんなことが起こるのか」

ということを思い、心が苦しくなったり、また頭を悩ませたり、

自分がその当事者じゃなかったとしても、

「その苦しんでいる人にどのように手を差し伸べられるのだろうか」

と考えることがあります。

実際、私自身も最近悲しいことが起こり非常に複雑な心理状況を味わっていました。

そんな時にたまたま読んでいた本、『ケアの物語』『利他ケア傷の倫理』「中動態の世界』

この3冊が繋がって、最終的に私の心を少し救ってくれました。

なので今回はこレラの本のことを土台にしながら、悲しみからの脱却について考えてみたい

と思います。

一つ目の解決策ー『ケアの物語 小川公代』ー小さな話に耳を傾けること

『ケアの物語 小川公代』では

「大きな物語に、隠されたり、埋もれたり、見えなくなってしまった小さな物語に、

多声性を持って、大きな物語に変容をもたらすことが必要であり、ケアである」

ということが書かれてあったと解釈しました。

大きな物語=当たり前とされてきた、圧倒的な価値世界

小さな物語=当たり前からこぼれ落ちたり、見えなくされているような、声の届きにくい世界

このように考えられます。

例えば。具体的に男性優位の社会観を例にあげると、

大きな物語=男性中心の価値観や働き方

小さな物語とは、男性社会が当たり前である中で、声を上げることもできずに我慢を強いられ

ていた女性。

そこで必要なことは、大きな物語、小さな物語のどちらの声も聞くことにより、

この主流のように思われている大きな物語に変容を起こす。ということです。

では実際に私の「悲しい出来事」はどう当てはまるのか?

悲しみの起こる場面には、多くの場合、「大きな物語」にはいられない「小さな物語」で

あることが多いように思います。だとすると、その小さな物語の声はなかなか届かないということ

が多いように思います。だからこそ、悲しみを感じた時、小さな物語になっている時は、

その悲しみがどのようなもので、どのようであればいいのか、どうであることが望まれるのか

など、自分自身の声を上げること、その声に自分自身が自覚的になることが

何かの契機になることはあるのではないかと考えたのです。

悲しみに打ちひしがれていたら、それは難しいかもしれない、。

しかし、少しでもできたなら、それは立派なケアであり、自分自身を救うことにも

つながるのではないでしょうか?

2つ目の解決策ー『利他ケア傷の倫理学 近内悠太』ーケアする側に向けて

『利他ケア傷の倫理学 近内悠太』では

「利他とは、他者に導かれ、その人の大切にしているものを共に大切にしようとする営みである。」

ということです。

そして利他には

「合理的にはしないはずのことを、にもかかわらず行う」という逆説性がある

(その逆説性こそが信頼である)

「他者の大切なものが見えにくい」が、それはその相手の行動や物語の異変によって知ることが

できる。

相手を変えるのではなく、自己変容が起こるものであり、それにより自分もセルフケアされるものである

ケアをする視点で見てみると、

まずは何を傷としているのか、相手の大切なものを知るために、変化に気がつき、

それがたとえ不完全であっても、対話を止めることなく向き合うこと。

そして重要なことは、人を変えようとするのではなく、自分自身が変容すること。

それがひいては自分自身のセルフケアにもつながるのです。

ここでも、相手を強制的に変えようとするのではなく、対話を持って、言葉を尽くすこと、

もしくはそれらに思いを馳せ考えることが、それぞれの物語に変容をもたらしてくれる。

互いの世界に変容をもたらすという部分ではひとつ目の話と通じるものがあります。

3つ目の解決策ー『中動態の世界 國分功一郎」よりーそもそもこの世界はー

悲しみが起こり、そこから「なぜだ」と考え始めた時、諸悪の根源は何であろうかと、

「悪」探しに向かってしまうことがあります。

そうした何か一つの解を見つけることが、傷ついた気持ちが楽にさせる効果が、

一定数あるからかもしれません。

しかし実際は実質的な解決にならないことがある、さらに言えば、そもそも諸悪の根源と

いうようなものはないのかもしません。

そのような考えに至らせてくれたのが『中動態の世界 國分功一郎』です。

著者は、

全ては能動的、受動的、つまりさせる、させられるというような2つの軸で起こっているのではなく、

すべては流れ動き、その色々な流れが重なり合った時、事象として現れる。

意志として存在するのではなく、流れ、変容の中で起こるのだと、

いうことを言っていると私は解釈しました

その視点で言えば、悲しい出来事も、誰かが何かをしたから、スタートしたのではなく、

連綿と繋がっているそのものの流れがそのタイミングで表出してきた、

つまり中動態であることを意味しているのかもしれません。

だとすれば、圧倒的な悪を探すことよりも、どのようにしてこのことが起こったのか、

ということを一つ一つ探っていくこと、事実ありのままを浮き彫りにして、

そこから考え出すことが重要であるのではないかと思います。

そしてこの中動態の視点は、すべての人の心に優しくあるのではないかと思います。

なぜなら、これらはすべての流れのうちで起こり得たのだと考えられ、

何か一つのことに責任を負わせるという考えとは異なるからです。

まとめると

悲しい出来事、と一言に言ってもその中には無数の出来事事象が含まれている。

そして、そこから悲しみ、恨み、責めるなどと言ったことが繰り広げられていきます。

最悪の場合は、悪の連鎖に結びついてしまうかもしれません。

しかし、3人が提案している在り方は、ケアであり、非常に優しく、前向きなものであるように

私には感じられました。

実際、私に起きた悲しい出来事も、この3つの人々の考え方を自分なり落とし込み、苦しさや、

悲しみを感じたり、歯痒さを感じたりもしながら、今はそれらとは異なる前向きな考えになっている

という事実もあります。

だからと言って100%解決できるわけではないことはわかります。しかし、それをそうだとやめてしまったら、そこで終わってしまう。小さな歩みかもしれないけれど、こうした方法を知っているだけでもいいのではないかと思います。

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