前回「自分とか、ないから教養としての東洋哲学 しんめい」という本を紹介しました。
/https://you-try-blog.com/book20240926/
その中で
「この世はことばの虚構から生じている『宝行王正論』1-50」
ということが書かれてありました。「言葉」が虚構を作り出している。
これは東洋哲学から見たアプローチでしたが、
なんと脳科学からの観点からもそれと類似するようなことがあると感じました。
だから非常に興味深く思い、そのことを書いてみようと思います。
今回読んだ本
今回読んだ本は「進化しすぎた脳 池谷裕二」という本です。
この本は神経科学を専門とする池谷裕二さんが、中高生に講義を行っているのをまとめた本です。
会話形式になっていますし、非常にわかりやすく読みやすい本でした。
生物の内容も丁寧に書かれていますので、中高生の生物をなんとなく理解している方ならば、
スムーズに読んでいけると思います。
どの話も実に興味深く、人間の脳というのはこのようになっているのかと、
驚かされることばかりでした。
ですが今回は冒頭にも書きましたが、東洋哲学とにているなと感じた、
「第二章人間は脳の解釈から逃れられない」をみてみようと思います。
人間は脳の解釈から逃れられないとはどういうことか。
第二章の人間は脳の呵責から逃れられない、ということはどういうことのなのか。
非常に気になりませんか?!
本書では、視覚のあり方について「脳の解釈から逃れられない」ということを書いています。
いくつかの例が書かれてありましたが、私が特に興味深かったのは、目の錯覚に関するのことです。
正方形から長方形に瞬時に入れ替えると、正方形が徐々に伸びてきて、
長方形に変化するように見えるのだとあります。これを動きの錯覚というのです。
面白いことに、実際にスッーと正方形から長方形へとなめらかに変化させた時と、
先ほどの正方形から長方形に瞬時に入れ替わる時と、
脳の同じ場所が活動しているということなのです。
つまり、動きの錯覚を見ている時、実際の動きを感じる脳の部位が活動している
ということなのだというのです。
たとえ錯覚であっても、脳が動いたと判断したのなら、それは「動いた」ということになるのです。
つまり脳の解釈から逃れることはできないということです。
これをうまく利用したのが、パラパラ漫画やアニメなのです。
一つ一つは異なる絵なのに、その中間を脳が補うことで、
あたかもスムーズに動いているように見える。
意識することって?
意識するとはどういうことか、そんなことを考えたことがありますか?
私たちの行動の多くは意識的に行うことよりも無意識に行っているものの方が多いです。
心臓を動かすこと、呼吸を知ること、言葉を話すこともあると言います。
呼吸も止めようと思うと、息を止めることもできますが、
大体の場合は、息をすることはくことを意識せずに行っています。
言葉は意識して使っていると思いながら、私たちはほとんど反射的に使用していると言います。
例えば、何かを見て「すげー」というのも、他の言葉について深く考えたり、
「す」を言って「げ」を言ってと考えながら話しているわけではありません。
そういう意味でも、意識していると思っていることも実はそうではないことの方が多いのです。
では「自由意志」と思っていることはどうであるか?
こんな実験の例が書かれてありました。
「好きなタイミングにボタンを押していください」と言ってボタンを押してもらう。
その際の脳の動きを測定してみた。そうするとどうなるのか?
脳波をモニタリングしていると、「運動前野」という運動をプログラムする部分が活動し、
それから1秒ほど経ってから、「動かそう」という意思が現れたというのです。
つまり、脳の方が先に動き出しているということになるのです。
非常に驚くべきことだと思いませんか?私たちが選んで行っていることも、
無意識にすでにスタートしている、そして自分その時動かそうと思ったのだと思っている。
悲しいから泣くのではない
「悲しい」と思って泣いていると私たちは思っています。
しかし実際は「悲しい」から泣くのではないのだというのです。
「悲しいと感じる神経を刺激するから涙する」のではなく、
「悲しみを感じさせる「源」のような神経を刺激すると、涙が出るという部位に情報が涙が出る」
のだろうと書かれてありました。
「悲しみ」が直接的な涙の要因ではなく、あくまでも「悲しみ」という元になる部分が刺激され、
そこから涙の部分が刺激されるということなのだと思います。
本書では
「悲しみとは感情にすぎないんだ。つまり、神経の活動の<副産物>でしかない」
と書かれてあります。
さらに言えば、感情とは、<抽象的なもの>で、「悲しみ」というものは、「抽象そのもの」。
<抽象的なもの>というのは言葉が生み出したもの。
だから、「悲しみ」というものは脳の中に実在するけれども、夢などと同じように幻想である。
本書を引用すると、言葉の幽霊、と書かれてありました。
感情は多くの場合が、脳の神経活動の副産物であり、そのように感じちゃっているという、
幻想の世界、あくまでも言葉の幽霊なのだと書かれています。
だから自分自身はこうである、というのはあくまでも、このように感じちゃっている、
このように思っているという、言葉の幽霊であり、実在しているけれども、
これといった物的なものではないということになるのかもしれません。
この辺りは東洋哲学の「この世はことばの虚構から生じている『宝行王正論』1-50」
に非常に類似性があると思います。
人間は抽象的な概念を持ったからこそ、その世界を作り出しその世界を生きているのかもしれません。
最後に
自分の解釈が本当にあっているかはわかりません。
ですが、自分自身の解釈であれば、
抽象的な概念を定義できる言葉というものが、私たちに新しい世界を、虚構を作り出した。
それは、東洋哲学と科学的なエビデンスを用いながら考える脳科学と通ずる部分がある。
というのが非常に面白いなと思いました。
さらに二つの観点から面白いなと思った部分がありました。
一つ目として、意識のところのでも、フレーズとして「身体」という言葉が出てきました。
神経と身体のつながり、そして心、意識のようなものと身体のつながりというのは
大きく影響しているのではないかと思いました。
それが自分自身の個性、もしかするとAIと大きく異なる部分のヒントになるのかもしれないな
と思いました。
二つ目として、言語の抽象化ということにも何かしら面白いことが隠されているように思います。
言語というものがいかに人間に大きな影響を与えているのかということも気になるところです。
その辺りも深掘りできていければ面白いなと思います。
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