前回は「もの」を所有することで「執着」が生まれてくるのではないかということに辿り着きました。
その「執着」に関して、なんとなく通ずるものがあるなという面白いなと思う本がありました。
それは『ひっくり返す人類学 生きづらさの「そもそも」を問う 奥野克己』の本です。
この本の「第3章 心の病や死とはそもそも何なのか」という章で、
死について書かれている部分が、「執着」と結びつくように思い非常に興味深かったです。
「プナンの人々の死に関する向き合い方」が、「執着」を持たないことの究極のようなに感じたのです。
ではどんなことなのか、書いてみようと思います。
プナンの死の向き合い方
「プナンの死の向き合い方」とは一体何か、本書の内容を、私の解釈で書いてみます。
そもそもプナンとは何か?
簡単にいうと、「民族の名称」です。
もう少し詳しく説明すると、
プナンとは、著者がフィールドワークで訪れたインドネシアのボルネオ島に住む狩猟採取民
及び元狩猟採取民に与えられた民族です。
プナンの死の向き合い方とは?
「デス・ネーム」
プナンでは、人が死ぬと残された家族は名前を変える「デス・ネーム」という習慣があるそうです。
プナンでは、人間の要素は、身体、魂、名前の要素を備えており、身体と魂のつながりというのは
不安定であるとされています。その不安定なものを接着するものとして、名前があるとされています。
そして、その名前は、身体と魂を繋ぎ止めるために、いろいろな状況(例えば、死や病気)によって
名前が変わるのだと言います。「名前」を変えるという刺激を与えてやらないと、
身体と魂はしっかりと定まらないということになるようです。
死者の生きた痕跡を消し去る
死者が出た場合は、プナンでは、死者の生きた痕跡を消し去る行動を取るのだと言います。
日本では、宗教のあり方などで異なるとは思いますが、例えばある宗教のある種はでは、
死者に戒名という形で名前を授けることがあります。「死後の世界」で生きているのだという
新しい概念が生まれたりします。
しかし、プナンでは、死者の名前を口に出すことを禁忌とされ、その人の遺品などは焼却し、
生きていた痕跡を全て消し去るのだと言います。
森を遊動していた時代は、死体を埋葬し、棲家を破壊し、死が起きた場所から速やかに移動する
というような徹底ぶり。こうしたように、徹底して死を自分たちの生活から遠ざけてしまう行為
を行なっているようです。
プナンの人々のあり方を見た私の解釈
以上のようなプナンの人々の死の向かい方を見た私の解釈は、
プナンの人々は「死」というものを遠ざけることで、「今」を生きることに目を向けている
と考えます。
「死」というものと距離をとることで、故人を弔い、そして、何より生きている残された人々自身の
悲しみを和らげるような精神的な行いであるのだと思います。
同時に、「今」を生きるということで、前に進むことができ、新しい生活を行うことに
繋げているのだろうと思います。
そんなプナンの人々の「死」のあり方を知って、これは究極的な「執着の手放し方」ではないかな
と思いました。
なぜなら、人が死んでしまうというような、残されたものに大きな影響を与えるのは
間違いないことにも関わらず、これらを全て刷新してしまうような行為を行なっているからです。
大きな影響を与えるものだからこそ、日本のような葬式、戒名、そして、宗教的な行い四十九日など、
死者のことを忘れないようなあり方もあるのだと思います。
私自身そうしたやり方をして、死者を思い、死者のことを寂しく思いながらも、
時間をかけて心を癒していたように思います。
だから日本の多くの人が行なっている死の向き合い方と真逆にも思われるプナンのやり方、
「死者自体」を速やかに忘れようとするあり方は、衝撃的にも感じます。
それと同時に、そのプナンのあり方は、
「今」を生きなければならないものにとって、「今」を生きるために、必要なあり方なのだろう
とも思います。または、「大切な誰かの死」を速やかに忘れることを、ダイナミックに行うことが、
人々の心を逆に安定化する側面もあると思います。
よく考えたら、日本でも、死者のことを思い出して悲しくならないように、
できるだけ日常と同じような生活をするというようなこともありますね。
それで心が安定するということもあります。
「死」を「執着」という言葉に結びつけることは、少し次元の違う話かもしれません。
しかし何かしらの事柄に、思いが繋がれてしまうということは、「執着」つながるもののようにも
感じます。そのように考えれば、プナンの死の向かい方を参考にすると、
こうしたダイナックな動きをし、「今」を生きることにシフトしていく考え方は、
「執着」を持たずに生きていくヒントになると考えます。
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