以前のブログで、喜びや悲しみ(感情)は言葉の幽霊である(『進化しすぎた脳 池谷裕二』)とか、
東洋哲学の「この世はことばの虚構から生じている『宝行王正論』1-50」
(『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学 しんめいP 』)
というようなことがあるということを書いたことがあります。
そこから人間独自の言葉というものに興味を持ちました。
人間は言葉を持ち、抽象的な概念を持ったからこそ、自分たち独自の世界を作り出し、
その世界を生きているのだということになるかもしれません。
だとすると、「言葉」というものを掘り下げていきたくて、『言語の本質 今井むつみ 秋田喜美』
という本を読み直しました。そこで重要なキーワードは、学力の躓きでも出てきた
「アブダクション推論」でした。
どのようにして抽象的な言語体系を習得するのか
そもそもことばの意味がわかるとはどういうことか.
突然ですが、ことばの意味がわかるとはどういうことでしょうか?
本書では
ことばの意味とは点ではなく、面である。
同じ概念領域に属する他の単語との関係性によって決まる。
対象を「点」として知っていても、「面」の範囲がわからなければ、
ことばを自由に使うことはできない。p178
とあります。ただ単語を知っているだけでは、ことばを知っているということにはならない
ということです。このことは、言葉を習得するという過程で重要なことです。
子どものことばを習得する方法とは
こどものことばを学習する過程を本書から見ていきましょう。
1、ある事象を観察をする
2、そこから、類推、分析をする
3、一般化(定義づけ)を行なっていく。
4、誤りの訂正、一般化のアップデート
というような流れだと私は解釈しました。
これらの一連の動きを何度も何度も繰り返していくことでどんどん言葉を習得していくのです。
このサイクルを筆者は「ブーストラッピングサイクル」としたのです。
このように書くと非常にシンプルに見えますが、この過程には工夫や力が宿っているのです。
オノマトペというあしがかり
子どもがことばを学習するとなると、抽象的な言葉では理解しにくいです。
そのため、大人は子どもが理解できるように、音のイメージから類推しやすい言葉を使用します。
例えば、ゴミをゴミ箱に捨てることを理解してもらいたい場合、
「ポイして」というようにいうことがあります。
この「ポイ」は投げることをイメージさせるような音を用いたオトマトペを使用します。
音と動作イメージがしやすいからです。このようにオトマトペを足がかりにしながら、
子どもたちは、音から何となく動作を類推し、それがその動作の意味なんだと一般化して、
使用してみるのです。
間違った一般化
本書で面白い例が書いてありました。
それは、母親が子どもにボールを投げてと伝えるために「ポイして」と言ったら、
子どもがボールをゴミ箱に入れてたのだというエピソードです。
母親は「ポイ」の意味を「投げる」という意味で使っていたけれども、
子どもは「捨てる」という意味で理解していた、つまり間違った一般化をしていた
ということになります。
同じ「ポイ」でもそこには色々な意味がある(多義語)ということを理解するのは
難しいことなのだといいます。
ですが、このような経験、間違いをしながら、言葉には多義語があるということを
学習していくのだといいます。
こうして、子どもにとっては、まだまだ少ない知識、点であることばを総動員して、
経験と推論、そして一般化をし、時に間違いをしながら訂正する。
そうして、面のことばとしてことばを理解していくのです。
アブダクション推論
子どもの言葉を習得していく過程を見てきて言語習得とは、
言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、
洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。p204
知識を持たない子どもであっても、自らが持っている感覚・知覚能力と推論能力を使って、
知識を創造することができる言語体系を習得していくのです。
観察したことから、こうであるかもしれないというある自分の仮説があり、
その仮説に対しての結果から答えを導き出す推論をアブダクション推論と言います。
つまりこの言語習得の過程こそが、アブダクショ推論のなせる技です。
これをブーストラッピングサイクルすることにより、より多くの知識、概念の体系を得ることが
できるのです。このサイクルの要でもあるアブダクション推論には欠点というか、
注意すべきところがあります。それは子どもが言語を習得する際にもみた「間違った一般化」です。
本書には以下のようにも書かれています。
アブダクション推論は、絶対に正しい正解が決まらない推論である。
だから新たな知識を創造するのだp217
そして
知識を創造する推論には誤りを犯すこと、失敗をすることは不可避なことである。p218
なのです。私は先ほど、アブダクション推論の欠点というか注意するところと書いてたのですが、
そうではなく、そのことは必要なことであることなのです。
それを修正する事で知識の体系全体を修正し、再編成する。p218
このプロセスが重要であるのです。
今まで見たようにアブダクション推論を行うことで、抽象化された言葉を習得していくこと
ができるのです。
私の仮説
抽象化された言葉というものの習得の仕方がわかったところで、
私は一つの仮説を立てました。
ことばが持っている意味が、それぞれの人が異なること思ったり、
理解しているということがあるのではないか?
そして、ことばの意味を共通認識として理解しているものだ、そしてそのことば意味はそれであると
信じているからこそ、ことばを使った世界が成立しているのではないか?
さらに、このような性質上、そのもの自体、現象は実際に存在しているのだけれども、
ことばとして表現されることにより、それはそれぞれの人が作った世界=虚構であるということに
なるのではないか?
というものです。
ことばを獲得していく際に、私たちは自らの経験と推論を行なって結果を導き出す、
アブダクション推論を行なっていきます。
その性質上、どうしても間違った一般化を行なってしまう。
そして、その答えが必ず正しいのかと言われるとわからないのではないかと思います。
そして、その人がどのようにそのことを理解しているのか、ということも究極は
異なっているのではないか。そんなことを思ったりしたのです。
だとすると、皆が同じだと思っていること、そして同じであると信じていることが、この世界を
作っているということになると考えました。
今回は少し長くなったのでここまでにして、
次回は、ことばを持たない動物と私たちを比較してそこから
私の仮説に対するこたが見つからないか考えてみようと思います。
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