「となりのイスラム 内藤正典」を読んで学んだことーイスラムとは?

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前回から引き続き、「となりのイスラム 内藤正典」を読んで、私が知ったことを書いています。

教科書で「イスラム」とは何かをさらっと習ったような気もしますが、私はすでに記憶が曖昧なので

ここでもう一度、復習しようと思います。

また、著者は、イスラム世界である、シリア、ヨーロッパのトルコ出身の移民を現地で研究し、

九一年からはトルコに家を持っているというイスラムの方々を身近に接してこられた方です。

その方から見たイスラムの人々について、私がピックアップして書いてみようと思います。

イスラム教徒とはどんな人なのか

そもそも「イスラム」とはどのような意味なのでしょうか?

そしてどのような人たち、どのような教えがあるのでしょうか?

「イスラム」とは

本書によると

語源的に言えば、イスラムとは、唯一絶対の神、アッラーに従うことです。

一部省略

イスラムというのは「イスラムする宗教であるということ。」

「唯一絶対の神、アッラーに従う」ということ。

それが「イスラムする」ということです。

ということでだそうです。

何かわかったようなわからないような。

私のイメージするのは、神様の言うことは絶対。

だから教えられた通りに行動しなければならないと言うような、

少し自由度が低いようなイメージを持っています。

また私の勝手なイメージですが、イスラム教といえば、ラマダン、女性が被り物をしている、

男性優位なイメージというのもあり、さらに言えば規則などが厳しいというイメージがあります。

本書では、欧米の方のイスラムのイメージを以下のように書いています。

欧米の世界では「神に絶対的に服従する」から、

イスラムは人間の主体性というものを認めない、

理性というものを認めない宗教だろうと思い込みます。

と書かれています。

でもそれは誤解であると著者は続けます。

そして著者の考えとして書かれているのは

神様に従うのだから、物事の結果は神様によるものです。

「唯一絶対の神、アッラーに従う」かぎり、自分は責任が降りかかってこない、

ということでもあるのです。

と書かれています。

つまり、私たちが勝手に思っているイメージとは少し異なる部分があるようです。

著者は、イスラムの本質は、人間のおごりをいましめ、弱い立場の人を助けることに

あるように思うと書かれてあるように、決して人間の主体性を認めない宗教ではないと言います。

もしかすると日本の責任論は絶対的なものがいないからかも?!

ここから少し、イスラムのことを知って少し私が思ったことを書いてみようと思います。

それは

「イスラムのような絶対的な神のような存在がないから、日本で責任論が問題になるのではないか」

ということです。

少し突拍子もない考えですが、もしもイスラムのように全ては神様によるものだとするならば、

たとえ大きな失敗があったとしても、それは神様によるものであると考え、

誰かに責任をなすりつけたり、誰かを非難したりということがないのではないか

という仮説を立てたわけです。

主語が大きいですが、日本では誰がやった、誰の責任と言うように、

「責任」のなすりつけあいのようなことというのは、よく見聞きすることのように思います。

それがニュースになったり、大きな問題になったりする事も多々あるように思います。

そのような時に、「神」というような絶対的なものがいて、物事はその神様によるものだと言われたら、

人間同士で変に「責任」をなすりつけるような事も少なくなるのかも知れません。

それと同時に、私たちがジャッジできるようなものはほんとはほとんどなくて、

それこそ、もしかすると「神の領域なのかも知れない」とさえ思いました。

なぜならば、物事の多くは、私たちが思っている以上に不確かで、不確実なもので、

絶対というものはもしかするとないのかもしれません。

しかしながら、多くの場合、私たちは、どこかで、自分たちが思っている通りにできる、

私たちが全てを支配し理解できると思い込んでいるようにも思います。

ですが、実際はそうではないのかもしれない、そのような不確実なものに、

何か白か黒かとはっきりとした判断をつけようとすること、

それ自体が神の領域なのかもしれないなどと考えたりしました。

話がぶっ飛んでしまいました。

私が注目したこんな特徴があるイスラムの人々

本書ではイスラムの方がどのような人なのか、冒頭にも書きましたが、著者の実際の体験から

書かれています。そのようなリアルな視点から描かれているので興味深く感じました。

その中で私が注目した事柄が

・子供、お年寄り、弱い立場の人に優しい人々

・家族のつながりが強い

・「来世」では天国に行かせてもらえるように、善行を積む人々

です。

子供、お年寄り、弱い立場の人に優しい人々

「助ける」ということが善行を積むということになるというのもあり、

イスラムの人は弱い立場困っている人を助けるのだとあります。

このように書くと、善行と積むという下心だけのようにも見えてしまいますが、

だからこそ、「善行を積んむために助けるのだ」などと口に出して言ってはいけない。

口に出して、下心がわかってしまうと、そのことは神の前で明白になってしまうからだそうです。

つまり、心から人を助けることが大切だということなのだと思います。

また、これも不思議な感じがしますが、

困っている人がいると、自分の善行を積むために「これはいい機会だから助けておこう」

という自分のために人助けをしている。だからこそ、助けられた方も「ありがとう」などは

言わないようです。助けてもらった方も、その人の善行を積むための機会を与えたのだから

というような感覚なのでしょう。面白いなと思います。

もしかすると、弱い立場の人が、何かをやっていただいてるというような、気持ちを抱かなくて

済むのかもしれません。変な上下関係を作らなくて済むというか、

お互いがお互いのためになっているという充足感が得られるのかも知れません。

これは人と人が互いにうまく支え合っているのだということのだと思います。

家族のつながりが強い

これは実際に、アルバイトで一緒だったイスラムの方からもそのような印象を受けました。

よく家族の方とテレビ電話をされていましたし、家族との写真も見せてくださいました。

さらに家の中で一番大事な人はお母さんだそうです。そしてお母さんの力が一番強いのだそうです。

意外なイメージでした。先ほど私の勝手なイスラムのイメージにも書きましたが、

イスラムの国はなんとなく男性優位の国が多いイメージです。しかしそれはイスラムではなく、

たまたまイスラムの多い国の体制がそうであるというだけのようです。

イスラムのことを知ると、なんでもひとくくりにまとめて考えるのではなく、

その国の人々の在り方も着目していく必要があるのだと感じました。

「来世」では天国に行かせてもらえるように、善行を積む人々

この思いが強いため、日々の生活でも、イスラム教徒の人は、悪いことしちゃったな、

次は善行しなくちゃということの繰り返しのようです。

そう聞くと、私のイスラムに関する勝手なイメージ、何かストイックに宗教に取り組んでいる人々

ではなく、人間らしさもすごく感じられる人々だなとも思いました。

私が子供の頃に、誰もみてないところでちょっとしたイタズラやズルをはたらこうとしても

いや、お天道様が見ている、だとか、神様が見ているかも、というような感覚を

思い出しました。

自分の行いを「天国に行かせてもらえるように」と、明確な目的があることで、

自分自身を観察できるのは、シンプルなやり方なのかも知れません。

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