今回はたまたま読んでいた本『ゴッホのあしあと 原田マハ』に非常に興味深い万博
に関することが書かれていました。
それは、19世紀後半のパリ万国博覧会(パリ万博)のことでした。
その話から、万博のあり方というか、勢いというのかそのような力を感じたので
そのことについて書いてみようと思います。
日本が初めて出た万博はなんと明治維新直前
そもそも万博の一番初めはいつ開催されたか、イメージができますか?
お恥ずかしい話ですが、私は全くイメージが湧きませんでした。
というのも色々な国々が集まっていろんなことをするというその想像が思い浮かばなかったからです。
ヨーロッパなどは陸続きなので、やろうと思えば意外とできたのかも知れませんが、
なんとなく戦争や対立というようなイメージが強くて、平和的なイベントを各国がそろって
行うということがあまりイメージできませんでした。
ましては日本は島国で、開国したのも1854年の日米和新条約をスタートとすると
まだ200年も経っていないということ、このようなイメージがあったので
万博は近年の話なのかと想像していました。
しかしながら、第一回の万博は1851年のロンドンが始まりだそうです。驚きではないですか?
さらに第一回の万博には25カ国が参加していたとのこと。私としては驚きでした。
なんと日本が初めて参加したのは、1867年パリ万博博覧会だそうです。
まさかの明治維新直前、江戸時代に参加していたのだというのです。
なんとも驚きではないでしょうか?
江戸時代といえば、鎖国=海外との接触もあまりないという印象です。
ですが、そんな私の想像とは真逆で、江戸幕府の政治の体制も不安定な中でも、
海外に使節団などを送るなどして、海外との繋がりを持っていたようです。
(江戸時代、エネルギッシュな時代だったのですね。)
ではそんな政治体制も不安定な中で、一体日本が何を万博で展示したのか?
非常に気になりませんか?!
上記の万博に関することは以下のサイトを参照にしました。

パリ万博で展示したものー日本の文化ー
それは、江戸時代の芸術、浮世絵や工芸品だったといいます。
そしてそれらをみた多くの国の人々が、日本の芸術力、文化力に驚いたのだといいます。
江戸時代の浮世絵は、私の感想ですが、現在の私たちが見ても非常なインパクトとそして独創性、
何かしら心を動かされるような力を持っていると感じます。
色彩や構図、描かれる対象も西洋の絵画と比べれば全く異なるものです。
面白いのは、浮世絵は、木版画技術により大量に生産することができたので、
民衆の娯楽として楽しめるようになったということだと思います。
市民の生活が生き生きとエネルギッシュに動いていたのではないかと想像させます。
このような熱量のあるものが、海外に渡った。海外の人からすると、見たこともない文化。
それが多くの人を魅了し、熱狂させ「ジャポニズム」というある種のブームが起こったのです。
さらにすごいことが、ジャポニズムの影響を受けたのが、あのゴッホやモネという印象派の
画家だったのです。
これってすごいことだと思いませんか?
日本の文化から影響を受けて、新たなアートの動きに結びついたのだから。
今よりも海を超えてものが伝わることが難しい中で、万博という機会によって
新たなイノベーションが起こる。
これを聞いて、まさに万博の意義ってこういうことなのだろうと思いました。
影の立役者ー林正忠
林忠正は「ジャポニスムの影の立役者」とも称される人物だそうです。
林忠正のこと
第3回パリ万博博覧会のフランス語通訳として参加し、そのあとそのままパリに定住。
浮世絵をはじめとする日本美術を西洋マーケットに提供することでした。
しかしながら、明治時代、日本国内では浮世絵の価格が低下し、
それを林忠正は大量に扱うことができたのです。
その当時は、浮世絵は紙屑同然のような扱いだったそうです。
だから大量の浮世絵を高値で欧州に売ることができるということになります。
当時一部の人々から、「紙屑で巨利を得た」というようなことを言われ嫉妬されていたようです。
しかし、1920年代、日本での浮世絵の価値が上昇すると、
林正忠は海外に浮世絵を流出した「国賊」というようにして非難されることもあったようです。
ただ、林忠正は、林の印(小印)として本物の保証として扱われたり、
優れた浮世絵は売らずに日本に持ち帰るなどして「保存や普及」にも
尽力していたということがわかっています。
私から見た忠正のあり方
このような状況を鑑みるに、林正忠はジャポニズムブームにものを売っていただけでなく、
品質の保証、優れた浮世絵の保存といったことを行なったことで、
ジャポニズムの交通整理のような役割を果たしたのではないかと思います。
日本にも西洋にもどちらにとってもウィンウィンなことを行なったのだろうと思います。
そこからイノベーションが起こったのだと思います。
『ゴッホのあしあと 原田マハ』の第1章:ゴッホの日本への愛、日本のゴッホへの愛では
ゴッホが日本の浮世絵に魅了され、そこから日本を「理想郷」と憧れていたり、
アルル(南フランス)の風景を「日本のような場所」と見立てて創作に没頭したエピソードが
描かれます。こうして一人の画家の人生に影響を与えるようなものを海外に届けられたこと、
そんなイノベーションもあるのだと感じさせられました。
昔の万博と現代の万博から感じたこと
私は、こうした一連の流れを見ていく中で、
前提として心を魅了するような何かしらの文化、技術のようなものがあり、
それを万博という形で提供し、人々に関心を持ってもらう
そこからの流れで、新たなマーケットとして活動したこと、
というのは、1867年の時代であれば、万博という流れがあってだと思います。
こうした動きも万博の意義に通ずることなのかなと思います。
しかし、現代は、魅了する文化、技術というものはネットによって素早く伝わるし、
それらの開発のスピードも凄まじく速くなっています。
その点においては、以前の万博とは異なり、現代の万博にはそれを表現する、提示することの
メリットはもしかすると少なくなっているのかも知れません。
しかしながら、だからこそより一層リアルにみる、触れる、体験するということが必要になり、
何よりも、それらのものを作っている人々の文化だとか、その人々のあり方だとか、そうした
根本的なことを知ることが必要になるのかも知れません。
それと同時に、林忠正のように、技術を現地でうまく交通整理するような人がいたり、
うまく伝えていくというような人というようなビジネスのあり方は、現代でも有効なのかも知れないと
思ったりしました。


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