先日カメラを洗濯機で洗って壊してしまった話をしました。
そのカメラのSDカードには子供が撮った写真がたくさん入っていました。
全てだめになってしまいました。
それらの一連のことがあって、さらに私は考えることがありました。
それはそう言えば、「写真を撮る人、撮らない人、撮るだけの人」という
3パターンの人間が我が家には存在してるということです。
だからどうした?という話だと思いますが、
「それらの人々の心のうちとは一体どんなものがあるか」を考えることによって、
「執着」というものが、わかるのではないかと思ったのです。
3パターンいるのだと気がついた理由
洗濯機でカメラを洗って全てをダメにした後、私の謎の問いを考えていたので、
その後どのような結末を迎えたのかを書いていませんでした。
私はその失敗をしたことを、子供が学校から帰ってくるとすぐこの事実を打ち明けました。
子供が帰ってくる前まで、私はすごく心がザワザワしていました。
子供に足して非常に申し訳ない気持ちでしたし、どうやって許してもらうことができるだろうか、
と考えていました。
実際、謝ると、こちらがびっくりするくらい、子供はどうもありませんでした。
正確にはちょっとだけ悲しそうな感じはあったような気がしますが、
そのぐらいの気持ちの動揺でおさまったような感じでした。
その後は、写真のことなんて気にしてなくて、普段通りでした。
あれこれってどういうこと??と考えていく中で、私はわかったのです。
そうか、写真を撮るという行為には、写真を撮るだけで満足というパターンもあるのかと。
つまり、写真を撮る人、逆に撮らない人、そして写真を撮るだけの人というのがいるのだと
気がついたのです。
写真を撮るだけの人ー我が息子のパターンー
我が息子のパターンを考えてみたいと思います。もう一度失った写真のことを振り返ってみます。
彼は、家族の誰よりも一生懸命写真を撮っていました。
私たち家族は何かしらをある程度見たら、もしくは気になるものを写真に撮ったら次へ進もうと
している中、彼一人だけ、いろんなところを何度も撮っていました。
いろんな角度から撮ったり、はたまたそこにあるもの全てを撮ろうとするように
一つ一つ撮っていました。こんな姿を見ていたら、その後の写真に思い入れがあると思いきや、
先ほど話したようにサラッとしていました。
これについて、私が考えた行き着いたのは、
「彼は写真を撮るその行動そのものが楽しくて充実している」
ということでした。つまり「今ここ」を楽しんでいたのだろうということです。
つまり、前回書いた、「写真とは過去のトリガーになる」というような話があったけれども、
彼自身には、それはあまり関係なく、写真を撮るその瞬間に熱量が100%向いていたと
いうことだったのです。だからこそ、撮られた写真にはそこまでの「執着」が起きなかった
のだろうと推測しました。
カメラを撮らない人ー夫さんのパターンー
今まで気にしていませんでしたが、そういえば、我が家では写真を撮らない人がいます。
それは夫さんです。
彼にどうして撮らないのかと尋ねると、
「単純にスマホの容量が少ないから写真を撮れない」
「自分の中の記憶に残しているから」
または「自分以外の人が撮っているから撮る必要がないだろう」
という返答が返ってきました。
ここから考えたのは、彼自身写真という物質にして残そうというような強い願望がない
ということです。
彼は「機能的な側面」を解決してまで写真を撮ろうという熱意はないですし、
「記憶で残す」ということで、写真自体にそれほどの興味がない、
最後に、「他人の写真への依存」ということで、自分の視点を収めたいというような
写真の面白さのようなものも興味を持っていない。という印象があります。
また「他者への写真の依存」に関しては、自分の視点で写真を残したいという気持ちや、
この瞬間を残したいというような欲望はなくて、
ただ「トリガーとしての写真」という意味合いが強いのだろうと思います。
彼の言葉「自分の中の記憶に残している」からわかるように、
おそらく彼はその時間を自分の記憶に残すために、しっかりとその時間を味わっていると推測します。
そのような面において、「今ここ」に集中している度合い強いのかも知れません。
だから写真に「執着」も起きないのだろうと思います。
写真を撮る人ー私のパターンー
私がなぜ写真を撮るのか考えた場合、
記憶を残す
自分の好きなアングルで写真を撮ってみたい
写真を撮るという行為が楽しい
ということがあるからです。
つまり、「記憶としての要素」と、「自分の思い、気持ちの要素」この二つがあると考えます。
だからこそ、「写真というもの自体」に大きな意味があるのだと思います。
「記憶」と、「自分の思い」、その二つが乗っかっていることで、自分にとっての写真の価値が
非常に上がってしまうということのだろうと思います。
だからこそ、写真がなくなった時の悲しさ、そして「執着」というのも大きなものになる
のだろうと思います。
「執着」が起こる理由
ここで私は、執着が生まれる理由を理解したような気がきました。
「今ここ」だけに集中しているだけであれば、(ここでは写真を撮るだけの人、写真を撮らない人)、
執着ということはあまり起こりにくく、
逆に、物質、そして思いが絡んでくると、(つまり写真を撮る人)
そこに新たに「執着」という概念が存在して来るのではないかということです。
「今ここ」に集中している人は、その瞬間こそに価値のピークがあるため、
執着が起こりにくいのではないかと推察します。
(ちなみに、「幸せ」について知っておきたい5つのこと NHK「幸福学」白熱教室 という本にも、
幸せになるには「今ここ」に集中することと書かれてあります。幸福とも関係するということですね。
実際、この3パターンで写真を失って一番がっかりしていたのは写真を撮り人私でした。)
ここで一つの仮説として、「物質」を所有することで、「執着」が生まれ、
「今ここ」では執着は生まれないのではないかということを考えました。
そしてそれに繋がるのではないかという本を見つけましたので
次回はそのことについて書いてみようと思います。
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