今年私の祖父が他界した。90歳を超えていて、大往生と言って良いのかもしれない。
そんな祖父とは、一年以上は会っていなかったと思う。
そして私と祖父の関係はそこまで濃いものではなっかたように思う。
なかなか会うこともなかったからだ。
そんな祖父との記憶といえば、祖父の体は大きくがっちりとしていた、
そして、非常に穏やかな人だったというものである。
また、祖父は田舎の人なので、強い方言だったので、多くの会話はなかなか聞き取れなかった
ように思う。今となればそれもくすりと笑えるエピソードである。
私の子供たちを祖父に抱っこしてもらった。
きっと私も同じように抱っこしてもらったのだろうと思うと何か温かい思いになった。
それは私にとってとても幸せなことだったように思う。
こうして思い返しても、祖父との思い出はそう多くはない。
そんな祖父に久々に会ったのは、お葬式で、祖父が静かに眠っている姿であった。
私が記憶している、穏やかなあの表情はなかったし、大きいと思っていた体も一回り
小さくなっていた。長い時間あっていなかった日々、そして、生命の灯火が消えてしまうというのは
こういうことなのかと実感したように思う。ただただ哀しい。
私の母、つまり祖父にとっては娘、また、私の祖母、つまり祖父にとっての妻、の気持ちを思うと、
私の心はぎゅっと苦しくなった。私自身が娘という立場、そして妻という立場になったから余計に、
その気持ちを感じたのかもしれない。私にとっての母、祖母という何か偉大な存在が、
ここでは、娘と妻という立場になり、そしてその立場は私に投影できるものだから。
何かとても小さな、か弱い存在のようにも感じた。私が何か声をかけてあげなければならないような、
守ってあげなければならないような、なんとも言えない気持ちになったのだ。
今まで感じたことのない不思議な感覚。
そんな哀しい気持ちが私を包んでいる中で、小さな子供の可愛い声が響いた。その可愛い声の主は、
私にとっては甥っ子、そして祖父にとっては曾孫である。私はその声が私に新しい視点をもたらした。
「あぁ、この声の子供がここに存在するのは、祖父がこの世に存在していた証なのだな。
祖父からつながってきた命がここまで続いているのだな。
私もそのつながりの一つなんだな」
という命のつながりとでもいうのか、そのような何かしらの軌跡を感じることができたように思う。
祖父からその子まで、ぞれぞれの点と点を結んでいるということに気づかせてくれたのだ。
祖父がいて祖母がいる、だから私の母がいて、私の母と父がいたから私がいるのだと、
そういう個人個人の点が結ばれて、その軌跡があるのだと。
私たちいる偶然とそして必然に気づかせてもらったのだ。
私という一つの点にすぎないし、この世に大きな何かを残しているわけではない。
でもここにいることの必要性というかそのようなものを感じて、わからないけれども
ホッとすることもできた。
祖父との思い出は、先ほども書いたようにわずかであった。そして祖父とはこの世とあの世と
大きく離れた場所にいる。今まで以上に遠い場所に行ってしまった。
でも、個人個人というある種の点が、家族というなの先で結ばれていること、
その軌跡の上にいることを感じたことにより、今は祖父を近くに感じることができたように思う。
これまた不思議なことである。
祖父との別れはそれは哀しいものであったけれど、こうして祖父の別れを通して、
祖父がいたのだということをきちんと感じ、その祖父がいたから私が存在しているのだということ、
その中で私が存在していいのだと確信を持てた。そう思うと、祖父の死は非常に哀しいけれども、
大切な時間を過ごさせてもらったのだと思う。そして、私は新しい点を生み出し、その点を線で結んでいる。そう、それは私と旦那、そして私たちの子供たちの存在である。今ある家族のありがたさ、
必要性を改めて感じさせられたようにも思う。
私たちは、人と人との線の上に存在している。それ自体が尊いことなのだ。
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