『おいしいごはんが食べられますように 高瀬隼子』から考える。自分の心のシグナルを紐解くこと

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今回は『おいしいごはんが食べられますように 高瀬隼子』を読んで私が考えた、

「何かに強く反応するのは自分の心のシグナル」ということについて書いてみようと思います。

簡単なあらすじ

「おいしいごはんが食べられますように」は、男女3人を中心とした登場人物の織りなす人間関係や、

仕事と恋愛などにまつわる心のうち、そしてれがたべものを通して巧みに描写されるお話です。

物語の中心人物は、職場で要領よく立ち回るそして、感情を押し殺しているようにも感じる二谷、

そして仕事もなんとなくできてしまい、自分の感情を押し隠してできてしまう押尾

そして皆が守りたくなるような、そして天然で無垢な「弱い」芦川、の3人です。

物語は、芦川は体調不良を公然と訴え、職場で暗黙に許容され、特別扱いを受けている。

そんな彼女に嫌がらせをしようと押尾と二谷は画策するのだが、それが思わぬ方向へ進んでいく。

というような感じです。

私の軽い感想

はじめに驚かされたことは、題名と内容とのギャップでした。

題名から「おいしいごはん」と何かほんわかした印象、そして「食べられますように」という祈り

のような感じ、そこからほんわかした優しい話なのかなと思って読み始めました。

しかしまさかの全く異なる話でした。

人間のなんとも言えない、しかし私自身も感じたことのあるようなドロっとした感情が

浮き彫りになるような話でした。

ここでポイントなのは、私の第一印象のように、ごはんのことであれば多くの人が、

マイナスのイメージというよりは、プラスのイメージを持つということだと思います。

私の偏見まみれの感覚で書くとするならば、ごはんというのは生きるのに必要なものであり、

だからこそごはんというものは多くの人が良いものとみなすというか、

絶対的なものであるというような感覚を持っているのではないかと推測します。

本書では、そのような一般的な感覚に反対の意見を述べている部分があります。

二谷の言葉

「例えば、シーズンごとに流行りの服を買う人が、

まだ着られる状態の服を捨てたとしても、世界には貧しくてぼろぼろの服をしか着られない人が

いるのになんて言われないけど、食に関してそういうことがすぐに言われる」74

この部分から、ごはんに関してだけ特別なのではないかというような気持ち。

このように、ごはんは圧倒的な特別感、そして正義のように言われています。

ここが重要なポイントだと思います。

登場人物に対する考察をしてみる

二谷のこと

二谷は上記のあらすじにも書きましたが、職場で要領よく立ち回るそして、

感情を押し殺しているようにも感じる男性です。

感情を押し殺しているというかそのように生きてきて、そうなってしまっているといった方が

正しいかもしれません。

例えば、

大学を選んだ十代のあの時、おれは好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだな、

と大げさだけど、何度も思い返してしまう。

その度に、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。

好きより大事なものがあるような、好きだけで物事を見ていると、

それを見落としてしまうような気がするし、そうであってほしいと望んでもいる。65

また別のシーンでは、芦川さんと二谷の3回目のデートで二谷のマンションに行った時のこと。

その時の彼女の在り方について考える二谷

だから芦川さんは正解だった。自分は正解を選んでいる、と二谷はわかっていた。29

これは明らかに、彼女のことを感情的に好きであるというようなことではなく、

何かしらの正解に辿り着いているのだという内容です。

大学にしても、彼女にしても、彼は無意識なのか、感情を押し殺して、何かしらの正解を得ようとして

います。一時が万事このような感じなので、感情を押し殺しているのか、そこに意味を見出せないの

か。彼を見ていると、自分の感情がないものになっていて、それが何かしらの悪い方に向かって

いるように感じるのです。それが食に向かっているように思います。

二谷は食に関して思うことがあるのです。絶対的な食に関して怒りのようなものさえ感じているように

見えます。しかし、実際は食に怒りというよりは、食はあくまでもメタファーであり、

実際は別のところに怒りを燃やしているのだと考えらます。では実際は何に怒っているのか。

押谷のこと

二谷と同じような芦川に対して嫌な気持ちを抱いている押谷。彼女は、なんだかんだ自分の気持ちに関

わらずできてしまう人です。情熱を燃やしているわけではないけれどうまくできるチアリーダー、

会社でもうまくできてしまう。例え体調が悪くても、心の声には蓋をして、なんとかやってしまう。

そうなんでもできてしまう、ある種強い女性として描かれています。

それを表す象徴的な言葉が

わたし別にチアが好きなわけじゃなくて真面目でできちゃったからしてただけなんですよね。

~練習はきつかったけど、運動部の練習なんかどこもそれなりにきついじゃないですか。

めっちゃ嫌って事もなくて、単に引退まで続けた。それだけ。85

自分の感情というよりは、自分は真面目でできちゃったし、周りだって同じようなもんだろうと

思ってやっていた。流されてここまできたというような印象を受けます。

自分の情熱とか自分の思いというものを感じる事なく進めてきた。

同じようなことは仕事でもそうだとあります。

どこかでこれでいいのかと思う部分もありながら、できちゃうからやってしまう。

そうした感情。

芦川のこと

では彼らとは対極にあるのが、芦川です。

彼女は本当に無垢で、純粋で、自分の気持ちに正直です。

芦川は、体も貧弱であり、尚且つそれをすぐに上司に言える。

我慢して耐えるとか、薬を飲んででも仕事をこなすとかそういうことをしない。

でもそれが悪気あってしているのでもない。また、体調が悪くて帰ったり、繁忙期にも関わらず、

彼女は弱いことにより、残業をしないで帰ることが暗黙として許される。

そして、無垢がゆえにそれに対して申し訳ないからと、手作りのお菓子を作ってくる。

それも手の込んだものである。

自分の気持ちに正直な感じ、良かれと思ってやっている無垢な感じが際立って見えます。

また彼氏である二谷に体に良いものをと手作りのご飯を作ったり、食べるように言ったりします。

自分の気持ちに正直で、正しくて、圧倒的に健やかに人として描かれています。

ここから見えるてくること

二谷や押尾のように、自分の心に蓋をして、自分に嘘をついて、

環境に合わせて、社会や世間に合わせて生きていくことを受け入れてしまっている人、

そうした社会を生きることができてしまっている人、ちょっと違うかもしれないな、

その社会で生きざる得なかった人と

この圧倒的に健やかな人、自分に正直であり、ある種の正しさを持っている人であるからこそ、

二谷や押尾が芦川のことを嫌いになるのではないだろうか。

ここで重要なのは、芦川がはじめにいったように「ごはん」のように圧倒的な正しさ、特別感として

存在しているということにあるのではないだろうか。

芦川は決して悪いことをしていない。

体調が悪いのなら上司に報告し、家に帰ること、これは必要なことである。

自分の体調が悪いことも、我慢せずに伝える、それも必要なことである。

手作りのご飯を食べることも体のことを考えたら、正しいことである。

圧倒的な正しさとしてそこに存在している。

だかこれらの正しさが、そうではない、そうできない人にとっては、

怒りというか、何かしらの重みとしてのしかかる。

この正しさのような、健やかさのような、特別感のような、ものが「ごはん」とリンクして、

だからこそ二谷はごはんに対して、特に健康的な「ごはん」に対して怒りを燃やしているので

はないだろうか?

怒りのぶつけようがないというか、ままならない感じというかそのような気持ちが理解できると同時

に、このような状態、自分の心をかき乱したり、何かしら恨んだりしてしまうような状況がある時は、

別の部分に何かしらの気持ちがあるのではないのかと考えてみるきっかけになるのではないだろうか?

そこを深掘りすれば、自分が本当に求めているものが何であるのか気がつくことができる

のかもしれないと思うのです。それの怒りや恨みのようなものは、自分の心のシグナルのではないかと

考えるのがいいのではないかと思います。

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