「アーモンド ソン・ウォンピョン 訳矢島暁子」を読んで。日本と韓国の感想の違いから考える。

本を読んでいるすがた

『アーモンド ソン・ウォンピョン 訳矢島暁子』さんの本を読ん感じたことを書いてみようと思います。

この本は韓国の著者によって書かれた本です。その前提をお伝えして、私が感じたことは

「日本、韓国によって感想、捉え方、視点が異なる部分があるのだ」ということです。

あまりにも当たり前のことを書いているじゃないかと思われたかもしれません。

ですが、今回は助っ人AIを使って色々と感想を深めていく中で改めて実感したことです。

同じ本を読んでいるのにもかかわらず、

(といえども韓国語と日本語では役が入っているので大きく異なり、

すでに変わった視点で読むことになりますが)、

やはり感じ方や捉え方が異なるというのは、なんだか面白いなと感じました。

具体的にどのような違いがあるのか、それについて少し深掘りして書いてみようと思います。

当たり前じゃないかということですが、ぜひお付き合いいただければ幸いです。

どんなお話?

はじめに、少しあらすじをAmazonの本紹介の部分から引用しつつ書いてみると、

主人公は扁桃体(アーモンド)が人より小さく、怒りや恐怖を感じることができない

十六歳の高校生、ユンジェ。

そんな彼は、十五歳の誕生日に、目の前で祖母と母が通り魔に襲われたときも、

ただ無表情でその光景を見つめているだけだった。

母は、感情がわからない息子に「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪」「欲」を丸暗記させることで、

なんとか“普通の子”に見えるようにと訓練してきた。

だが、母は事件によって植物状態になり、ユンジェは一人で過ごさなければならない。

そんなとき現れたのが、もう一人の“怪物”、ゴニだった。

激しい感情を持つその少年との出会いは、ユンジェの人生を大きく変えていく。

そうした二人の友情の物語です。

ざっくりと私の感想

次に、この本を読んで私が考えたこと、感想を書いてみようと思います。

私がこの本を読んで感じたことは

1、対比されて描かれている人々

2、二人の友情

3、親としての立場

4、普通を強いられている感覚

と多く四つに分けられると思います。では、もう少し具体的にみてみると、

この本で私は色々な人々が対比的に書かれているなということが気になりました。

例えば、ユンジェとゴニ、ユンジェのお母さんとおばあちゃん、というような感じです。

対比で描かれることにより、彼らの立ち位置や感情の動きがわかりやすく感じられました。

とくに対比されているものが、シンクロするような部分は、私の感情を大きく揺さぶるって

いるなと感じました。具体的には、ユンジェとゴニの終盤のお話。

これは、まさに対比的に描かれていたユンジェとゴニが、シンクロ、交わるような出来事が起き、

私は非常に胸を打たれました。異なる二人だけれども、それゆえに二人に変化をもたらしている。

そうして友情の進展も非常に興味深く読みました。

また別の視点として、ユンジェとゴニ、それぞれの親が出てきます。彼らは彼らなりの方法で

子供達のことを思って行動を起こします。例えば、ユンジェのお母さんはユンジェを普通の子に

見えるようにと感情を教えて覚えさせようとしています。

それに対して、おばあちゃんは「詰め込み教育に果たして意味があるのかね」と舌打ちをしたり、

ユンジェ自身も、母さんは、全て僕のためだ、つまりそれは「愛」なんだと言ったことに対して、

それは母さんお気休めのための悪あがきでしかなかった、とか、

これが愛なら与えられたりもらいもしない方が良いのではないかとまで考えています。

つまり齟齬が生じている状態です。ゴニのお父さんも良かれと思ってやっているのだろうけども、

それがうまく噛み合っていないような部分もあります。

そのようなシーンを読むと、同じ親として、理解できる部分があったりして、

胸がグッとさせられました。

最後に、この本では「普通」を強いられているような感じが非常に受けました。

日本でも同調圧力があります。根深くまだ残っているとはいえ、だんだんと変わってきている

のではないかと私は思ったりしています。

しかし本書を読むと、韓国はかなり「普通」を求められて、息苦しのではないかなと、

感じる部分がありました。

以上が私のざっと感じたことです。

助っ人AIに聞いてみた「韓国と日本の感想の違い」

こうして私が感じたことを、助っ人であるAIに投げかけてみました。

そして私とは異なる意見も聞いてみたいと思い、日本と韓国のそれぞれの読者の感想を聞いてみると

違いがあり大変興味深かったです。

ではどのような違いがあったのかというと、

非常に簡潔にまとめると

日本は個人の感情と成長に共感、

韓国では社会との葛藤と構造的問題を重視、

というような感想の違いあるとAIが言っています。

とても面白いです。私の感想もズバリ日本の感想と一致します。彼らの成長や親の気持ちというような

個人の感想によっています。

そうなってくると、韓国社会は一体どのようなものなのか気になります。

韓国社会は一体どうんなもの?AIに聞いてみた

なのでさらに聞いてみると

韓国は「普通」であるということを強く求められる

とあります。本の中のでも何度も「普通」という言葉が出ていましたが、

まさにそれは韓国社会を表していたのです。

だからこそ韓国の感想の中には、

「ユンジェは普通に慣れない存在として描かれているけれど、

それでも自分の形で人と繋がる努力をする姿に、励まされた」という感想が挙げられていました。

また

「精神的な多様性を認めるべきというメッセージ、感情のあり方には個人差があること、

それを社会全体で認め、支え合う必要があるというメッセージを強く受け取ったという人もおり、

それは韓国社会の「成功至上主義」や「能力主義」のアンチテーゼとして読まれることもある」

と書かれていました。

ここから「普通であること」そして「成功至上主義」や「能力主義」という非常に

厳しい環境があるということがわかってきました。

どうして「普通」が求められるのか?

さらになぜそのように「普通であること」の圧が強いのかというと、

それは世界有数の学歴社会、受験社会であり、彼らには一定の「成功モデル」というものが

あるのだと言います。だからこそ「

普通である」=落第者ではないという保証になっており、

強い圧を感じつことになるのだと言います。

韓国では「普通である」ことが成長と安心の象徴なのです。

一昔目の日本にも同様の流れがあったように思います。

では、韓国のアイドルはどうして人気なのか?

韓国のアイドルは非常に人気です。アイドルこそ普通とは異なる世界観だと思います。

なのにどうして韓国アイドルは人気なのでしょうか?

その辺りもAIに質問してみました。

アイドルは、強い個性、ビジュアル、並外れたスキル、そして自分らしさや物語を武器に

世界で活躍します。普通とは大きくかけ離れて世界に羽ばたいている、

これが、「自分には出来なことを実現している存在の憧れ」、

「本音を押し殺す日常の中で、夢や感情を代弁しくれる存在」として機能している

のだといいます。

つまり、現実の制約から解放された”理想”の象徴であり、

「普通ではない」特別な空間で生きている存在となっているのです。

この二つの世界観、二重性の中で若者たちは生きているのだといいます。

「みんなと同じであれ」という現実の社会規範

「自分らしく生きろ」というアイドルや文化的理想

これらの狭間で揺れ動いているのだというのです。

これらはAIが叩き出した答えなので、全文が全部正しいのかはわかりません。

しかしながら、韓国ドラマや映画、例えば映画『パラサイト』などをみていると

これらのことがあながち間違えてはないのだろうと推測されます。

最後に

そのような韓国社会背景を知っていると、『アーモンド』の韓国の感想の中に

「普通ではない」として描かれているユンジェに共感し、励まされたという感想が

あること、そして『アーモンド』が社会のアンチテーゼとして読まれるのも納得が

いくなと感じました。

こうして別の世界の視点を取り入れて、物語を考察すると、自分がはじめに持っていた感想とは

最初に書いたように、同じ本であっても、社会背景が異なるとこの本の感じ方は大きく異なります。

また異なる視点が得てから、この本を知るとまた違った感想を持つようになります。

こうした本の読み方も面白いと思いました。

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