『はじめての利他学 若松英輔』を読んで

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今回読んだのは『はじめての利他学 若松英輔』という本です。

利他とは何かを単純に知りたくて読んでみました。

そこでわかったのは

利他の前に私には足りない要素があるということでした。

その足りない要素、それは自分を愛するということです。

愛するなんて、私にとっては何かイメージしにくい、むずかゆいような言葉です。

そんな「自分を愛すること」と「利他」との関係を見てみたいと思います。

利他のスタートは「自利自他」からだった

もともと「利他」という言葉とは空海が初めて使ったと言われているようです。

その空海ですが、単に「利他」と書くのではなく、「自利利他」と書いていたようです。

その意味は、本書では以下のように書かれてあります。

「利他」は「自利」とは切っても切れない関係にある。

さらにいえば「自利」こそが「利他」の土壌であるとすら考えていたのです。

また

釈迦の教えに「二利」というものがあります。それがまさに「自利」と「利他」です。

「自利」は永遠の安楽を望むことであり、

「利他」の苦しみの原因を取り除きたいというものです。

これは二つが一つであるというのです。

もう少し考えてみると、

「自利」とは自分の利益、幸せ、

「利他」とは他人の苦しみを取り除く、つまり他人の利益、幸せ

ということになるのではないかと思います。

それら二つが一つになって、「自利利他」、現代の「利他」となるのではないかと思います。

本書でも

「利他」の本質とは、自分と他者が深くつながることなのです。

とあります。

ここでキーポイントと感じるのは「利他」と「自利」が二つで一つであることだと思います。

自分というものと共に

ここで別の考え方についてみてみます。それは、最長の考え方です。

最澄は「忘己利他」ということを言っています。

最澄にとっての利他とは、己を忘れて、自分の心に余白をあけることにより、

利が行えるのだと言っています。

空海、最澄、一見すると、逆のことを言っているように思います。

ですが、これは「自分の欲望」や「過剰な自我」を忘れろということなのかなと思います。

だから、自分自身を全て忘れる、意識しないというのはまた異なるように思います。

また仏教の考え方における「菩提心」という考え方があります。

「菩提心」とは簡単にいえば、仏様の心、悟りを求めようとする心であるようです。

「菩提心」というものが目覚めなければ、真の「利他」には到達できないと書かれてあります。

そして、そもそも皆に存在しており、それを日々の努力により会得していくものであるようです。

その悟りを開くために、日々自分を鍛錬するということ、つまり、自分自身に意識を向けること、

自分自身を蔑ろしないということなのかなと理解しました。

今まで私の思う利他とは、自分から相手に何かを行うことという一方通行の行動のこと

のように認識していました。でもそうではなく、自分というものと共にあるもののだということで

衝撃を受けました。

さらに言えば、自分の存在を抜きにした「利他」には、大きな罠がある書かれてあります。

相手に「尽くす」という状態は、ここでいう大きな罠の一つなのかなと思います。

自分を抜きにして、相手のためと思って、もしくは相手が望むことばかりを行なって、

相手の言いなりになっているようなそのような状態なのかもしれません。

西洋における「愛」と「利他」

今度は、西洋の「利他」にフォーカスしてみます。

本書では、そのことに関して心理学者、哲学者エーリッヒフロムの『愛するということ』

から考察されています。

ここで特に注目したいのは、

「愛は、他者と自己が分割できないところに生まれる」

ということです。

フロムの考えでは

愛の道とは、他者を愛する、自分を愛する、そして他者を愛すると同時に自分を愛することである

です。つまり、他者、自分と分けて考えるのではなく、他者も自分もというつながりが

重要であるということです。二つで一つという感覚。

それはまさに「自利利他」と似た考え方ではないでしょうか?

そのような愛こそが、真の利他なのだと思います。

他人を愛するだけではなく、自分も愛すこと、つまり相手だけに目を向けるのではなく、

自分自身にも目を向けることが大切なのだなと思います。

自分自身を振り返り

東洋、西洋の「利他」というものを見てきた中で、気がついたのは

「私は自分を愛せていない」もしくは「自分をいうものを蔑ろにしていた」ということです。

愛せないというと何か大袈裟な表現のように私自身が感じてしまうのですが、

自分を許せていない、認めていないということだと思います。

私が自分自身を考えた時に、私は周りの人のことを考えて、もしくは周りの人の気持ちを想像して行動

することが多いのです。それ自身はきっと問題もないのだと思います。

ですが、これは最長の言っている「忘己」ではなく、自分自身を失った状態なのかもしれません。

また、私は、自己肯定感というものが低いと感じています。

私自身は自分をあまり認めていないというか、自分が何もできていないというように思う

傾向があります。それがフロムのいう「愛の道」から外れているのだと思います。

だから、私が他の人のことを考えて行なっている行動というのは、どこかしら距離感があるもののよう

に感じています。おそらく自分を他人と対等というよりも、少し距離のある感じで接しているからだと

思います。だから何かを献上しているような感じになっているのかもしれないなと思いました。

そういう意味でも自分を認めること、自分を許すことというのをまず行う必要があるのかもしれないと

気付かされました。

具体的な行動

ではそのためにどうしたら良いのか。

具体的には、自分を認めることが必要なのだと思います。

私の悪い癖でもある。自分自身が何もできてないというマイナスな評価から入るのではなく

どんな小さなことでも自分ができていることを意識的に見つけること。

そしてそれを記録してみて、見える化してみること。

その小さな積み重ねが自分自身を認めることにつながると思っています。

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