前回、前々回と「自分なんて、ないから」という本を読んで、私が気になっていた
「自分なんて無い」「この世はフィクションだ」ということについて、
書いてみました。
この二つの考えを知ることによって、私が感じた2つの感情について書いてみます。
私が感じた感情
これら二つのお話から、私は、「自分なんてない」「この世はフィクションだ」ということを知って、
二つの感情を得ました。それは
自分がなく、フィクションのこの世の中で生きているって、非常に不思議な感覚である。
それと同時に、
自分がなく、フィクションのこの世の中だからこそ、気が楽になったような感覚。
です。
無いという世界で生きている
自分もこの世も無い、何も無いのにあるという不思議。
わかるようでわからないこの感覚。
このことについて考えるとどんどんわからんくなるし、遠くに行ってしまうような感じを受けます。
例えるなら、この世界はビックバンから生まれたけれども、
そのビックバンはどうやって生まれたのか、ではその前は?その前は?
と永遠に続いていくようなそんな感覚です。伝わるでしょうか?
でも何かしらは、あるのだと思います。
そして、、たとえ自分が無くても、この世がフィクションであっても、私たちはそのフィクションの中で
生きていかねばならない、フィクションを自分たちで作り上げながら生きていくのだという、
この事実はあるわけなのです。なんとも不思議な世界だなと思います。
そして到底答えには近づけないようなそんな畏怖さえも感じます。
フィクションだからこそ気楽でもある
その訳のわからない世界でありながらも、生きていくこと。
だけどもこの不確かな、曖昧模糊としたこの世界だからこそとも言えるのかもしれませんが、
自分も世の中もフィクションであると思うと、色々と思い悩んでいたことも、
ふっと消えるような気がします。
それはやけになって、考えないようにするというようなものではありません。
そのような悩みを作り出してるのも、自分であるのだと認識するというか、
メタ認知というような感覚なのでしょうか?
だからこそ、苦しみも少しは楽になるような気がしてきます。
新しい気づき
そうこう考えていると、この大昔から考えられている東洋哲学ですが、「メタ認知」
という現代生まれたであろう考えとリンクしている部分があるなとも気付かされました。
大昔の今よりも情報も少なく科学的に理解できてなかった時代に考えられていたことが、
現代の技術の進歩の中で見つかったことと繋がっているということにもたくさんあるのです。
例えば、龍樹の言葉に「この世はことばの虚構から生じている『宝行王正論』1-50」と
いうことが書かれてありました。
それが、なんと今読んでいる「脳科学」の本と通じるところがあるのです。
脳科学と哲学、宗教という、一瞬見ると大きく異なるようなものが繋がっている、
似ていると気がつかせてもらったことにも驚きとなんとも言えない喜びを感じます、
繋がった!という感じです。
物事のつながりに気がついた時の心の動きがたまらないですね。
とはいえ、これも私が生み出しフィクションなのかもしれませんが。
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