以前読んだ『アンダーグランド 村上春樹』と今回読んだ『『エミール』を読む 苫野一徳』で
共通しているなと思っている部分がありました。それは「人は誰しも多面的である」ということです。
この「多面的」について考えてみようと思います。
今回読んだ本
今回は二冊の本『アンダーグラウンド』と『『エミール』を読む』から考えてみました。
『アンダーグランド 村上春樹』は前回のブログで紹介しましたのでそちらを参考にしていただければ
と思いますが、簡単にいうと、1995年3月20日起きた地下鉄サリン事件の被害者の方のインタビュー
の本です。最後には、著者である村上春樹さんの言葉も書かれてあります。
今回新たに読んだものは『エミール』を読む 苫野一徳』です。
この本は、18世紀の思想家、ジャン=ジャック・ルソーが書いた『エミールーあるいは教育について』
という本のエッセンスが書かれている本です。本書にあるように『エミール』とは独特の読みにくさがある
とのことです。ですので著者によってわかりやすく解説されていて、ルソーの書いた『エミール』を読んでみよう
かなという気にさせられました。教育についてと書いてありますが、実際はそれ以外にも大事なことを教えてもら
えたような気がします。
二冊の共通した内容「人の多面性」
この二冊の本は、題名だけ見るとなんの共通の部分はなさそうに思います。
ですが共通して考えさせられた部分があります。それが「人間の多面性」という部分です。
「人の多面性」とは何かというと、一人の人間の中に、色々な自分というのがあるということ
と私は思います。
では、それぞれの本で「人は多面的」に関する部分を書いてみたいと思います。
『アンダーグラウンド』で書かれていたこと
『アンダーグラウンド』では、最終章で著者村上春樹さんが考えたことが書かれていました。
その中で著者の疑問があげられていて、その疑問として
「私はなぜオウム真理教からを目を背けたのだろう?」
とありました。
そんな疑問から著者の考えが述べられていたのですが、その内容を私なりの理解で書いてみると、
事件を起こしたオウム真理教と被害を受けた一般市民いうような二項対立的な関係で、
この事件は語られているが、(もちろんそのような構図で事件は起こっているのだけれども)、
このような組織の行動を敢えて排除しようとしなければ、自分の思考から排除できないということは
何かしら心に引っ掛かりがあるのかもしれない。その要因として、一見すると相反する人々であるが、
しかしながら、実際は、自分自身の奥底に何かしら共通の何かが存在している
というようなことだと私は理解しました。
自分の中で、そんなことをする人と自分は全く異なるのだと、何かしらの境界線を引いてしまっているが、
もしかしたら、そうではないのでは?ということを考えさせられたように思います。
『『エミール」を読む』で書かれていたこと
この本では、『エミール』の著者のルソーの人間性について書かれています。
序章の題として
「天才だけど人でなし。そんなルソーをどう考えるか?」
という問いが書かれています。
ルソーは思想家、小説家、音楽家などとさまざまな顔を持つ天才であったようです。
ですが、別の面で見れば、ただの人でなしでもあったようです。
例えば、ルソーは自分の子供を孤児院に預けてしまう”捨て子事件”を起こしたり、
盗癖、露出狂、被害妄想と色々な問題を起こしていた人でもあったようです。で
すが、著者である苫野一徳さんは、それそこが人間というものではないかと思うと書いています。
「わたしたちは、誰だって、アンビヴァレントだし多面的です。感情的なところもあれば、
理性的なところもある。立派なところもあれば、人には言えない恥ずかしいところだってある。」
ということが書かれてありました。
ここでも、自分とは異なる考えや常識というようなものを超えたところにある人のことを
ある種の境界線をひき、自分とは異なるんだと考えてしまう部分がありますし、
そのような部分を非難してしまうような部分も多くあります。
ですが、そうではなく、自分自身も同じような部分があるのだと
考えると、容易に非難することが難しくなると思います。
この二つを読んで感じたこと
それは
「多面性は誰しも持っているものである」
「人は多面であるのだから、それを本当の意味で理解しておく必要がある」
「多面性であるが故、人に見せている面も常に変わる」
ということに気付かされたように思います。
「多面性は誰しも持っているものである」
私たちの中にあるアンダーグラウンド、アンビヴァレント、自分自身では気がついてないかもしれないし、
気がついていても知りたくないかもしれない。さらに言えば、そのような矛盾というか整合性が取れないことを
どうしても受け入れなれないこともあるかもしれません。私もそのような部分があるように思います。
実際に、悲惨な事件、自分自身が経験もしたことをしているような人を見て、嫌悪感や非難を感じてしまうことも
あります。もちろんそのようなことは、生存本能、動物的な本能として、当然感じるべきことでもあると思いま
す。ですが、もしかすると、人間誰しも自分自身の奥の奥底つまり、アンダーグラウンドには
自分が思ってもいないような邪悪な感情を持っているかもしれないし、
そうでないとしても、環境的要因や何かの条件で、自分自身が悪と呼ばれるようなことに手を出してしまう
こともあるかもしれない。そこを受け入れる、理解する必要があると思います。
「人は多面であるのだから、それを本当の意味で理解しておく必要がある」
そして、私たちは常に変化しているわけで、多面性はあれやこれやと変わってしまうということも
理解しておくことが大切だと思いました。
もちろん、犯罪を犯すこと、人を傷つけることはあってはならないことです。それは大前提です。
ですが、それはその問題として考える必要があり、人間性という面と切り離して考える必要があるのでは
ないかとも感じました。
『『エミール』を読む』でも
「よいところはちゃんと認め、悪いところは正当に批判する。」
と書かれてありました。
この上手い切り分けというか、考え方を持つことが大切だと思います。
「多面性であるが故、人に見せている面も常に変わる」
人間の多面性を理解していても、つい私はバイアスというか、レッテルというか、
その人はそのような人だと考えてしまうこともあります。
それは人間が生きていく上での能力の一つと読んだことがあるような気がします。
ですが、そのような変な思い込みも外せるような部分も必要だと感じました。
私ができること
まずは、そのようなレッテルを貼ってしまったとしても、本当にそうであるかと問い直すこと。
そして、人がそのようなことを言っているとき、例えばテレビ、SNSなどをみて聞きしたら、
本当にそうであるかと考えてみる練習をすることが大切だと感じました。
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