私が勇気をもらった言葉「勉強しなければだいじょうぶ」

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私は2人の子供の母です。

定期的に訪れる子供の「勉強させなくちゃ」問題です。

私の小学生の子供は、学校の勉強といわれるものがあまり得意ではないです。

そんなことから、いろんな学校のあり方や考え方など本を読んだり調べたりしてきました。

そうした中で

窮境は「その子が楽しければそれでいい」

という結論に至っています。

しかし、どうしても定期的に訪れる

「本当に大丈夫だろうか」

という思い。

そんな中でたまたまであった本を今回紹介しながら、自分の考えを深めていきたいと思います。

今回読んだ本

今回であった本は

『勉強しなければだいじょうぶ 五味太郎』

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この本は、五味太郎さんの歯切れのよい考え方で、何かユーモアもあって、

私としては痛快な感じで読めました。

だからこそ、定期的に訪れる「本当に大丈夫かな」を一掃してくれる本でした。

特に私が「はっと」させられたことは「勉強と学習の違い」です。

私の「大丈夫かな?」はどうして湧き上がるか

どうして「子供が楽しい」と思える事をさせれることに「大丈夫かな?」と考えるかというと、

その大きな要因として、「勉強」と言う二文字が頭を駆け巡るようになってしまっています。

どうしてそのように「勉強」に固執してしまうのか、深堀りしてみると

・学校の勉強についていけないと、中学、高校にもついていけなくなり、

学校が面白くなくなるのではないか。

・社会のシステム上どうしても基礎の学力がないと仕事にありつけないのでは

ないのかという不安感が拭えない。

・社会などにでたときに、感じるのは結局はオールマイティーに何かができなければ、

いろんなことを言われたり、怒られたり、というようなことがあるということ見てきたので、

子供にそのようなことがあったら嫌だと思ってしまう

以上のように考えてしまっているということがわかりました。

まとめると、小学校の勉強と言われるものが出来なければ、これからどんどんと遅れをとって

最終目標である「自立」ができないのではないかと焦っている自分がいるなと思いました。

勉強と学習の違い

そんな考えの中、五味太郎さんの本に書かれていた「勉強」と「学習」の違いを読んで

目からうろこが落ちました。

五味太郎さん曰く

「勉強」というのは中国語では「無理をして頑張る」という意味だと中国人の友たちからきいたよ。

また面白いのが

「字面からしてこわばっている」

この感じたまらないですよね。本当にそうだなと思います。

更に

つらいことをすれば幸せになれるという考え。変なの。

と五味太郎さん。

とはいえ、この感覚、私自身備わっているような気がします。

おかしな領域かもしれませんが、あまりに楽すぎてすいすいいってしまうと怖い気持ちがするくらいです。

これって、性格的な事もあるかもしれませんが、知らず知らずのうちに、学校で培ってきたものなのかも

しれないなと本を読んで感じました。

では次は「学習」

これまた興味深いことで

「学ぶ」は自動詞で学ぶ主体がある。

「習う」は興味あることに、辿る、沿う、真似る。

習いながらアレンジメントしていく、つまり再構築していく。

あくまでも主体が自分であるということなのだと。

学習というのは、興味本位でやっている、楽しくてやっている。

そういうものだと思います。

私自身色々なことにチャレンジしていますが、それは自分が興味本位そして楽しい

と思ってやっていることです。

今の方が、学生時代よりも楽しくいろんなことを学んでいるように思います。

その楽しさを知っているのに、子供には「学習」ではなく「勉強」をさせているという矛盾。

少し反省です。

それと同時に、子供のやってみたい、やりたいと思う気持ちが、やらなくてはならないものよりも

上回っているということを大切にしなければならないなとも思います。

どんどんと年を重ねていくと、そうした感覚からどんどんと遠ざかっていくというのも

自分が今の年になって感じる事でもあります。

となると「勉強」という無理やりのものよりも、「学び」をどれだけ本人の中で持てるのか

は生きていくのに大切な力だなと気づかされました。

むしろ「勉強」なんてしていたら、どんどん嫌が増えていってしまう気すらします。

まさに「勉強しなければだいじょうぶ」は今の私が出会うべくして出会った言葉です。

なぜか急いでいる私達

もう一つ、五味太郎さんからのハットさせられる提言。

「子どもを生物的にゆっくり見るという習慣がついてない社会なんだよ。

社会の中でしかその子を見ていないのね、恐ろしいことに」

身につまされるお言葉。私自身、子供をそのように見ているかと言われると

言葉に詰まってしまう部分もあるように思います。

どうしても、流れにはめ込むようにして、子供の状態や気分を無視して進めているときもあるように思います。

ですがそれは子供を生物的に見ていないなと気が付かされました。

やはり、決められたレールや時間に乗せたもののように扱っているようにも思います。

もう少しその部分を注力していく必要があるなと思います。

本書にもあったように、子供の意見や思いなんかをなかったものにしてしまうとあります。

それも子どものいろんなものを奪ってしまっているのだと気が付きました。

まとめてみると

私は、勝手に子供のことを思って、心配してそして、色々とやらせようとしている部分があったなと思います。

でもそれは、結果的に子供にとって面白いことではないかもしれないなと。

そして、そうやって私がやってしまうことは、彼らの色々なものを奪うことになるかもしれない

ということにもうすこし自覚的になる必要があるとも思いました。

私に必要なことは、もう少し時間をゆったりと持ち彼らの言葉に耳を傾けたり、

どうしようもないときにともに考えることなのかなと思います。

定期的にまた「大丈夫かな」と思ってしまうのだろうけれど、その気持ちともうまく向き合いながら、

時に、五味太郎さんの言葉を思い出して、子供たちと過ごせたらいいなと思っています。

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