もしかしたら私自身が子供たちに偏見を植え付けているのかもしれない話

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先日家族で、行列ができるようなパン屋さんに行っていきました。

行列ができているようなパン屋です。そんな人が多い場所や焦っていしまうような状況、

その他にもお店、駅などで、何かと私が子供にしている対応で気が付いたことがありました。

それは、

私の対応が子供たちに知らず知らずのうちに偏見を植え付けているのかもしれない

ということです。

ですので、今回はその具体的なエピソードを書いてみようと思います。

ぜひ続きを読んで、御意見など頂ければと思います。

 

パン屋さんの出来事

では、どんなことが起きたのか?

先ほども書きましたが、行列の出来ているパン屋に行きました。

行列ができているという時点で私は行くのをやめようかなと思ったのです。

しかし、夫さんの謎の「大丈夫だ」という言葉で並んでいくことにしました。

この彼の謎の自信がある意味私に、私の偏見を植え付けているかもと、気が付かせてくれる

きっかけをくれました。

では、なぜ私が行くのをやめようと思ったのかというと、大きな要因は「子供たち」です。

具体的には

・子供たちが並んでいる間に飽きてしまうこと

・お店の方も並んでいるということで壁側にとか色々と神経を尖らせているので、

子供のことも気になって、私自身がドキドキしてしまうこと

・お店に入れる人数を6名と限っていたので、家族みんなで入ると、

お客さんはあと2名しか入れないこと(人によっては、良く思わないかもしれないと思った)

これらのことが頭をよぎりました。

そんなわけで、私ははじめは子供たちが食べたいパンを並んでいる時に聞いて、

夫さんに買ってきてもらおうかとも考えました。

つまり、子供たちは店内には入らないということです。

ですが、子供も中で見て選びたいと言い出しました。

ならばひとまず、子供たちもパンを選びたいだろうから、選んでそしたら店かでて、

夫にお会計をしてもらうことにしました。

ここで感じたこと

しかし、ここでふとそこで考えた事があります。

それは

「こんなにいろんなことを考えているけどそれはどうしてなのか」

「どうして子どもたちを、行かない大きな要因とおもってしまったのか」

ということです。

色んなことを考えているのはどうして?

それは、

私が周りの大人のことばかり考えているのではないか?

ということではないかと思います。

子どもがいるというだけで、ある一定の大人からは、嫌煙されることも少なからずあると思います。

特に公共の場で、多くの人がいるとなると、どんな人がいるか分からず身構えてしまう

自分がいるのも事実です。

だから、よく私は子供達に

「早くするよ」とか「邪魔になっちゃう」とか「早く選んで」とか言っています。

これは、私の本心であると同時に、私は親としてまわりにきちんと配慮しています

ということをなんとなくアピールしている節があります。

そうする事で、子供たちを見知らぬ大人からの理不尽な怒りから守っているという部分もあります。

だとしても、多くの場合、私自身が何かしらに巻き込まれない事を多く考えているのように思います。

 

パン屋に行かない要因を子供と考えたのはなぜか

なによりも、私は子供のことを一人の人間として考えていなかったかもということです。

これは、先ほども書いたように、大きなことになる事を恐れたり、自分がいろんなことを

監視しなければならないというめんどくささからきているのかもしれないと思います。

ですが、よくよく考えてみると私自身のこの態度こそ、まさに偏見なのかもしれないなと思ったのです。

よくよく考えてみたら

私は子供を店内に入れない事を考えていましたが、それ自体子供を社会に

入れないようにしているのかもしれません。

子供だって、他のお客産のように同じように長い時間待っているのだから

店内に入る権利はあるなと思ったのです。

私自身が、どこか子供たちを半人前と思っている節があるのかもしれません。

そして、それを親である私がしてしまったら、周りの大人の人も、

「子どもは店に入れなくていいものなのだ」というような刷り込みのようなことが起こり、

そうする事が当たり前だと感じさせてしまうかもしれないなと思います。

それは、子どたちもしっかりと社会の中の一員と認めるべきだと、思っている私自体が、

それとは逆の行動をしているのかもしれません。

 

更に気が付いた事

先ほど私は子供たちに「邪魔になっちゃうから」とか「早く選んで」とか

言っているということを書きました。

しかし、

この言葉自体が、もしかしたら知らない間に子供たちに偏見を植えつけているのかもしれない

と思ったのです。

これって、言葉の取り方によっては、子供たちが、公共の場所などでは「邪魔な存在」とか「トロい」とか

そういものなんだと、子供たちに伝えているようなものだと思いました。

例え、子供たちがそう感じてなかったとしても、子供たちが大人になって、

子供たちを見たらそのように思ってしまうかもしれないということです。

 

私自身、子育てをしていて、子供たちがもっとのびのびと楽しくいられることを望んでいます。

社会が子供たちを包含することを多く望んでいます。

ですが、そう考えている私もいざこうして、社会の中で子供たちと動くと、子供たちよりも、

社会の目のようなものに取り込まれていることを実感したのです。

 

ですが、それを親である私があえて子供に植え付けることはやはりよくないなと思ったのです。

夫さんはこの状況に全く何も気にしていなかった。子供も一緒に入ればいいし、ゆっくり選べばいいと。

そういう風におもっている親もすぐ隣にいたわけです。

このようにゆったりと構えている人がいれば、子供達ももちろん私もそのような気になってきたのも事実です。

そんな受け入れる姿勢が大切なのかなと感じました。

 

ではどうしたらよいのか。

とはいえ、私は小心者で、すぐに夫さんのような考えに変換する事もできません。

それに、子供の権利尊重といっても、子供もまだ不慣れな部分や社会のルールを勉強する段階です。

何でもかんでも、大人と同じようにもいかないのも事実です。

それを踏まえたうえで、どうしたらよいのか、

今回の場合を振り返ると、

まず今回のパン屋さんは、子供も含めて、店内に入ることを禁止しているわけではなかった。

だから、その言葉を信じして、堂々と焦ることなく子供たちとパン屋さんに入って、

大人同様もちろんルールを守って選べばよかったのだと思います。

そして、「邪魔になる」とか「早く」とかそんなことを言わないでゆっくりと選んだらいいですし、

言葉ももっとポジティブな異なる言葉で伝える事もできます。

 

別の観点で、私はこんな場合、例え私一人で買い物していても、適当に買ってでてしまうことが多い。

私自身がそもそも性格的に小心者だということも一つこのように焦らせる要因になっている。

だとしたら、まずは、その自分の小心者の部分を理解した上で、子供たちを一人の人間として、

相談したり、考えていけばいいのかなと思いました。

親子共に変化し、それが子供たちの血肉になれば、子供たちが大人になれば、

優しく子供たちを見守れる大人になれるかもしれないなと思いました。

私の何気ない言葉が、よい方にも悪い方にも変わっていく

その怖さとそして明るさを心にとどめていたいなと思いました。

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