今回は『普通の子 朝比奈あすか』を読みました。
まずはあらすじをご紹介します。以下はアマゾンに書かれていたものを引用します。
『佐久間美保は小学5年生の息子・晴翔(はると)と、同じ会社で働く夫・和弥と、忙しないながらも普段通りの毎日を過ごしていた。そんなある日、晴翔が小学校のベランダから転落して骨折してしまう。転落した理由を尋ねるも、息子はかたくなに口を閉ざしたまま。ひょっとすると、わが子はいじめを受けていたのではないか――。そう思った美保は独自に真相を探ろうとするが、自身も小学生時代に、あるいじめを「体験」した記憶がよみがえり……?』
この本では、「いじめ」に関してのインパクトが非常に強かったのです。
ですが、今回は別のことについて書いてみます。
私の思ったことー人間の中にある怖さー
この本を読んで、終始感じていたことは「人間の中の怖さ」のようなものでした。
ただ、これは「恐怖」ではありません。何かじわじわと湧いてくるような「怖さ」です。
そこから私思ったことは、
人間には「怖い部分」というものが、どの人にも備わっていて、
それがある条件が重なったときに現れるものなんだということ
それを「普通の子」という題の「普通」に凝縮されているのではないか
ということです。
この本を出てくる人々は、どこにでもいるいわゆる「普通の人」です。
特に何か異様な部分は描かれていません。
しかし何かしらのことが重なり合うと、そこから怖い側面が現れてくるのです。
これらは誰しもが持ち合わせているものなのです。
母親・美保の抱える爆弾と破裂した怖さ
美保はフルタイム勤務の会社員です。彼女は、非常にハードな生活をしている。
そのため、イライラしていたり、子供が休みたそうにしているのを感じているけれど、
見て見ぬふりをしています。
これらの状況は、なんら特別なことではなく、多くの人が理解できると思います。
しかし、この状況は、爆弾が爆発するような精神状態の下地のようなものは出来上がっています。
これは、一つ何かが起これば、ドミノ倒し的にいろんなことが倒れていくような状況です。
そして冷静に対応できないであろうと想像できます。
実際この本の中では、春翔が「学校でベランダから落ちた」という事態が起き、
どんどん美保が非常に過剰な反応を見せていきます。
これらの態度は子供を思ってのことであるのは十分にわかります。
しかし客観的に立場で見ている読者の私からすると、
彼女の動きが盲信的で、偏っていて、少し怖さのようなものを感じました。
父親・和弥の遠い距離感
和弥は普段から家族のことに、そこまで関心が及んでいない印象を受けました。
これはよくある光景のようにも思います。
しかし読み進めていけば行くほど、母親と子供の関係性から見ると、父親である和弥は少し差があり、
冷たさを感じるような気がしました。
例えば、晴翔、美保と和弥3人で、晴翔の心を開かせるためにじっくりと対話している最中。
美保がいろんなことを試みている中で、和弥が急に核心に踏み込んでいく。
別のシーンでは、和弥が親子カウンセリングを受けたほうがいいのかもと美保に提案します。
美保は晴翔のためかと思って納得します。
しかし和也の理由は、美保が言った言葉がどうしても納得できないということでした。
和弥の対応は、一見相手のためにしていることに見えるます。
しかし、読者の私から見ると、和弥はそれぞれの人に自分自身が心から歩み寄っているというよりは
ことを急いで行なっていたり、互いで解決するというより、人に任せている。
こうした行動がどこか他人事のように見え距離感を感じさせます。
何よりも怖いのは、そのことに本人は気がついてないように見えるところです。
学校の先生やいろんな保護者ー厳密さの中にある信頼感のなさー
先生たちや保護者の対応は、一つ一つ見ていけば理解できる行動です。
しかし、そらの行動は本来は必要なかったもの、でもそうしなければならないという怖さ、
つまり、信頼感のなさから出る正しさ、という怖さを感じました。
例えば
学校の体裁や責任を気にする管理
→管理職として責任問題があるし、他の生徒を守るという意味では必要。
親同士の話し合いに弁護士を連れてくる保護者
→弁護士という第三者が入ることは問題ないことだけれども、
その行為にすでに威圧感のメッセージが込められている
証拠としてのビデオ撮影
→これがあることで起きたことや起きた内容を理解できるというメリットがある
しかし、これらは本当は互いの言葉や関係性でなんとかなっていたものだったかもしれない。
こうした正しいのだけど、学校という道徳的なことを基盤に教えていく場所で、
互いに信頼できなくなっているという事実、そこに怖さを感じました。
怖さとはどこから生まれるのか
「怖さ」について考えてみると、
「怖さ」とは関係性の中から生まれてくるものであり、
特定の誰かでなく、誰しもがその側面を持っている
ということがわかります。
私も自分の中に同じ部分があるなと感じました。
だからこそ、この物語は怖い。
それは他人事ではなく、自分自身の問題として迫ってくるからです。
「普通」とは、「誰もがそうなり得る」という意味なのかもしれません。
そう考えると、この作品の怖さは、人間そのものの怖さなのだと思いました。

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