『福音派 ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会 加藤喜之』から考えた物語に取り込まれること

本を読んでいるすがた ブログ

唐突ですが、私はアメリカ社会というものをあまり理解していませんでした。

というのも『福音派 ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会 加藤喜之』という方を読むまでは。

この本を読むと「アメリカという社会がどういう社会であるのか」ということが理解できます。

私の思っていたアメリカのイメージそれは、

アメリカ=自由の国、多様性、アメリカンドリーム」

というような何か広々としたイメージでした。

しかし、本書を読むと少し違うイメージを持ちました。

アメリカという国が一体どのような社会であるのか

またそれを知ることで、考えさせられたことを書いてみようと思います。

アメリカ社会は『福音派的物語』が前提である

この本を読んで、私が理解したアメリカとは、

「アメリカ社会は『福音派的物語』が前提である」

ということでした。

アメリカは多様性の国で、宗教などもいろいろあって、それも自由でというようなイメージでした。

しかし実際は異なるようです。

米国的の福音派

アメリカ社会と大きな関わりがあるのは、

ズバリ本書の題名にもあるキリスト教の宗派の『福音派』です。

米国の福音派は、ローマ・カトリックと区別されるプロテスタント教徒を表す

一般的な呼称とは異なるのだと言います。

『米国の福音派は、神の言葉としての聖書、個人的な回心体験、

救いの条件としてのキリストへの信仰、そして布教を重視する、

複数の教団、教会、個人からなる宗派の壁を超えた宗教集団であり、運動である』(本書引用II)

と本書では書かれています。

また、

時代の流れによって、情勢が変わる中、「古き良き」アメリカ文化を守ろうとする動きが起き、

その動きが政治への参入へとつながっていき今に至るのです。

アメリカの大きな力となるような宗教が存在していること、

そしてそれが、政治にもつながっているということは知らなかったし、びっくりさせられることです。

これらの動きの中心の物語=終末論

そして、その動きの支えとなっているのが「終末論的な世界観」です。

終末論とは、世界の終わりに関する宗教的な考えです。

特に

『アメリカの福音派はキリストの再臨が近いと信じ、自らを神の側に立つ善の力とみなすことで、

世俗化や道徳的退廃という悪に立ち向かう』(本書引用)

ということなのです。

福音的物語とは

ここまでをまとめると

アメリカ社会には、福音派という宗教集団、運動があり、

それらが、ある時代から「古き良き」アメリカ文化を守るという価値観のもと、

政治に参入する。

その基盤には、「終末論」という宗教に関する考えがあり、

世俗化や道徳的退廃という悪に、福音派という善が戦うのだという考えで

政治が進められているということです。

こうした福音派を信じている人々の間では、当たり前の前提として共有されている

「終末論」があります。その終末論を基準に、

何が正義であり、どのようなあり方が望ましいのかが判断され、

それをもとに社会や政治の方向性が語られていく。

このように、善と悪、正しさの基準、進むべき方向を示す枠組みとして

機能しているものを、私は「福音派的物語」と呼べるのではないかと感じました。

この世界観で怖いと感じるのは「信じている自覚がない」

この「福音派的物語」の中心には、宗教という人々の心に大きく響く力があります。

それと同時に、アメリカでは宗教と政治は切り離されているとも言われています。

とはいいつつも、やはり宗教を由来とした価値観が、「常識」として使われていることがある。

この一見宗教とは関係ないと見せかけながらも、この大きな力を大いに利用している

もしくはその力が発揮されている。

この世界観で私が一番怖いと思ったのは、この状況です。

使っている本人たちは、宗教だと思っていないし、その物語の中に浸っていることにも、

あまりに普通に存在しているので気がついていない

という点にあると思います。

つまり、私が主張したいのは、宗教が良い悪いということではなく、

これがどんな物語であるかもわかっていないまま、

その世界に浸り、理解できていないこと、無自覚なこと

それ自体が一番怖いということがいいたのです。

日本ではどうか?

ではその観点でいくと、日本ではどうでしょうか?

アメリカのように、政治にも大きな力を及ぼしているようなことはないように思われます。

ですが、もしかすると、

ないと思っていること自体、もうある種の物語の中に浸っていて見えていないだけ

なのかもしれません。

つまり、デフォルトになってしまい、そのことを当たり前のこととして受け入れていれば、

疑うことも、怖さを感じることもないのかもしれません。

それもまた、静かな怖さではないでしょうか?

これに対してどうすればいいのかという答えに対して、明確な答えはまだ出ていません。

当たり前としてやっていること、普通だと思っていること、

そういうことに少し立ち止まって、点検する、考えてみる、ということ

その物語に浸り切る前のちょっとした余白を生むのではないでしょうか?

このようなことは、日常のあらゆることにあるのだと思います。

だからこそ考える必要があると思います。

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