今回は『会話の0.2秒を言語学する 水野太貴』の本を読みました。
そこから、会話の0.2秒という内容これももちろん面白かったのですが、
それ以上に、この著者が「ケア」的な発想を最終的に導き出しているところに感動を覚えました。
ですので、このことを書いてみようと思います。言語学からケアにつながる話に興味がある方はぜひ
読んでいただければと思います。
この本の面白さ
「人は会話の中で発話を聞いて文の意味を理解すると、それを踏まえて解釈し、応答する。
この間わずか200ミリ秒」
これを聞いて驚かないでしょうか?
毎日スムーズにトントンと行われている会話。
そのターン200ミリ秒の間で私たちの中で行われている内容が本当にとてつもないものです。
本書の図13を参照にして、ざっとあげてみると、
文構造の解析
意味の解析
語用論的な推論
ターンテイキングの準備
応答内容の整理
応答内容の文にする
応答
これをみると、なんのTO DOリストだよと思われるかもしれません。
この全てにチェックが入って、次の会話が進むわけです。
これはかなり単純化したもので、本当はもっと複雑なことをしているとのこと。
そしてその時間が200ミリ秒。
びっくりしてしまいます。我ながら自分自身を褒めてあげたいくらいですよね。
もっと流暢に風潮
これまでみただけでも、人間が会話を行っていることがいかに高度なことを行っているのか
わかったのではないでしょうか?
しかし書店を見てれば、「会話をもっと流暢にできるようするための本」とか、
「コミュニケーションの技」に関するようなの本が多く出回っています。
それはもっと会話を流暢できることを世間が求めている。
できない人はもっと努力しよう、というような力を感じます。
「普通のコミュニケーションの不思議」とケア的な視点
しかし著者はこうした200ミリ秒の会話の謎について調べていく中で、
自分自身で気がついたことがあるというのです。
それは
「もしかしたら普通の人のコミュニケーションの方こそ、ある面では異常ではないか」
ということです。この視点がケア的な視点へと繋がっていきます。
推論という文脈(意味、意図理解)ーASDの視点
そこで出されたのかASDの人々の視点。
定型発達の人々は、「方言」「助詞ね、よ」などで氷冠の伝達、親疎を伝えているのだという。
しかしながら、これらは情報を推論する必要があり、ASDの人の不得手とするものなのです。
そう考えると、そもそも高い推論コストを必要とする表現を多用している
定型発達側のコミュニケーションのほうが、奇妙に見えてくる
著者はそのように示唆します。
発話における文脈ー吃音の視点
吃音の人々の視点。
吃音とは話し方の障害の一種です。
吃音の人々は、吃ることがないように、自分自身で工夫を行なっていると言います。
例えば口内の環境を変えて音を出すということをおこなって、吃音の特徴である連発や難発を防ぐこと
ができるのだと言います。
例えばカタカナ語、だったり、日本語とは異なる発音形式を選んだりすることです。
吃音のない人は、口の形や環境をほとんど意識せずに話しています。しかし吃音のある人は、そうした
口の動きなど考えながら、言葉を選んで生きている可能性がある。
この指摘は、話すという行為が決して「自然にできている」ものではないことを、
改めて浮かび上がらせます。
無自覚さから生まれる「暴力性」
こうしたことを踏まえても、こんなに高度なことにも関わらず、そこに意識を置かずとも
話せていることがわかりました。ここに何の不自由もない人々には気が付かない視点です。
しかし、もしかするとその無自覚さが故に、できない人々に対して
ある種の「暴力性」を孕んでいるのではないか
ということを本書は指摘しています。
流暢さと能力主義
本書では、会話の流暢さと能力主義の関係にも触れられています。
そもそも人間には会話を流暢にされると、その内容を信じ込みやすくなる「流暢バイアス」というもの
があると言います。
そのようなことからも、会話が流暢であることによって、
その人をすごいと思ってしまうところがある。
だからこそできない人々をができるようになることが求められる。
しかしそれはどうだろうか。と一度立ち止まってみることを著者は提案します。
この「当たり前」や「普通」というものに一度疑問を投げかけること、
その行為こそ「ケア」的な考え、そして「ケア」ではないかと思います。
普通とは何かを考え、それ以外のことに目を向けることが、
過剰な神聖化を防ぐことができるのではないでしょうか?
会話という極めてハイレベルな営みを前提に組み立てられた社会。
その中で生きている私たち自身の0.2秒を見つめ直すことは、
ケアの視点を取り戻すことにつながるように思います。


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