『竜とそばかすの姫』ゆらぎをキャッチできる中間的な人々について

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前回、弱きものにされたものも、『竜とそばかすの姫』のルカのような、

ある種特別な立場からのケアがあるということを考えました。

では弱きものにされてしまった人のゆらぎは、どのような人に届くのでしょうか?

それをキャッチできる人、そしてその人々について考えを深めていこうと思います。

ゆらぎをキャッチできる人ー中間的な人々ー

弱きものにされた人からのゆらぎをキャッチできるのはどのような人か?

それは、

中間的な人々、つまり自分自身の内部にゆらぎを持っている人

であると考えます。

もう少し具体的にみていくと、

中間的な人々は、いじめる側でもなく、いじめられる側でもない、その間にいる人。

ここで出来上がりつつある秩序に違和感を感じ、自分自身の立場を固定していない人々です。

そして

これらの人々は、弱きものにされてしまった人から放たれているゆらぎにより、

自分自身が変容させられようとしているのです。

そう、まさにケアが起ころうとしている瞬間でもある。

キーパーソンである中間的な人

中間的な人々は、まさにゆらぎの真っ只中にいます。

彼らの行動によって、このケアがどのようになるか最後までわからない。

不確定な状況です。

この点はまさに「ルカ」と同じようなケアのあり方と言えます。

ゆらぎを受け止めるか止めないのか、それによって状況が大きく変わる。

このような状況において、

中間的な人々が非常にキーパーソンであるということ

がわかると思います。

そしてそれらになる人は、ある種特別な立場の人よりも、

結果的に見えれば、人数的にも確率的にも多い状態になる。

そのような意味においてもキーパーソンになってしまう。

だからと言って、この人々が全てを受け止めるべきなのか?

私は、中間的な人々がキーパーソンになってしまう。ということを言いました。

では、その人たちの行動によってでた結果が、その人たちが全て受け止めるべきなのか

というとそれもまた違うようにも思います。

理由は2つ、

ゆらぎはあくまでも放たれているだけだから

そして、この中間的な人々は、特別な資質がなくても「なってしまう」立場であるから

です。

ここで重要なのは、中間的な人々が「そうあるべきだ」という規範を立てることではありません。

むしろ、結果としてケアが起こるのかそうでないかは、

しばしばこの人々の在り方に委ねられてしまう

という構造に気がつくことです。

そして

ゆらぎを受け入れるかは自分の倫理観によるものです。

そこには勇気が必要であり、その強度は人によって様々です。

ケアは「にもかかわらず」という逆説的であり、恐怖をはらんでいるもの

だからこそ、それを他人が強制することは別の圧力をはらんでいるでしょう。

ケアを起こさなかったら、ケアの失敗であるのか?

では、中間的な人々がケアを起こさなかったら、それはケアの失敗であるのでしょうか?

それは違うと思います。

なぜなら、そのゆらぎによって、中間的な人々はすでに変容されてしまった。

これまでとは異なる感情が湧き上がり、自分自身の汚い部分を見たり、苦しみを感じてしまっている。

それはきっとその感情は心の奥に残っています。

そして、今回はケアを起こすことにならなくても、次の契機につながる可能性があるのです。

この点から見れば、ケアは起こっているといえるのかもしれません。

そうです、

弱きものにされてしまったものの受動的なケアのスタートが、中間的な人々を変容させていた。

これはケアそのものであるといえるのではないでしょうか?

ただしそれは、誰かが救われたという意味でのケアではない。

むしろ、救えなかったという事実とともに残り続ける、未完のケアであると言えるでしょう。

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