前回から引き続き、映画『竜とそばかすの姫』を観て考えたことを、ケア利他の視点で考えています。
今回は、前回の近内悠太的な視点とは、別の視点からのケアについて考えてみたことを
書いてみようと思います。
改めて、小川公代的ケアの視点
前回も書いてみましたが今回も改めて
小川公代的ケアの視点とは、
大きな物語、それから弾き出されてしまった、取りこぼされてしまったそうした小さな物語、
両者からの多声性から、物語自体に変容を起こすこと
でした。
『竜とそばかすの姫』を小川公代的ケア視点で考えると
ではその視点でみた時に、
ジャスティス我流を執拗に取り締まっている部分は、
小川公代が指摘する、大きな物語と小さな物語、になっている
と感じました。
簡単にいうと
大きな物語=仮想世界Uの「竜」を取り締まる組織「ジャスティス」(正義の執行者)
小さな物語=「竜」の声を聴かれない状態
ジャスティスはこの仮想世界Uの秩序を守っていることになっている、
しかし、それはある種の権力の偏りによって行われているのでした。
どういうことかというと、彼らの中の「秩序」、それを乱したものが取り締まり対象となり、
そしてそれを犯したものは、最悪の場合、仮想世界Uの最大の恐れでもある「アンベイル」
を行うという、一方的なやり方で行われています。
また、これらは、「仮想現実Uの共通道徳」となっており、
多くの人々がこのあり方の中で動いています。
つまり、仮想現実Uの秩序は、ジャスティスらの「正義」という名のもとに、
異なる声や背景を持つ存在を排除し、アンベイルという恐怖を通じて一方的に維持されている。
そして、その道徳が何の問題も感じずに、多くの人々に受け入れられている
この構造自体が大きな物語だと言えると思います。
「竜」の暴力的な行動がどうして起こっているのか、そのことに耳を傾けてくれることがない。
しかし、そこに鈴(ベル)が現れる。彼女が彼の声を聞こうとした。
そこから、小さな物語が輪郭を表してきた。そして、今までの秩序に変化をもたらす契機を与えた。
これが、まさに、小川公代的な視点でのケアが行われていると言えるのだと思います。
道徳という名の力
今回、小川公代的なケアを見てきた中で、再度気がついたことがあります。
それは、
道徳というのは時として大きな恐ろしい力になる
ということです。
その理由として、
権力や恐怖によって道徳が作られてしまうこと、
また
私たち自身が、「道徳」というだけで、それが正しいと疑いもなく信じてしまう。
そして、それをシステム化してしまい、全てに適応させてしまおうとする
また、取り締まる人も現れてしまい、そのシステムをますます正当化してしまう力が
起こってしまう。
このような一連の流れが恐ろしいと感じる理由です。
これは道徳全てが間違っているとか、恐ろしいものであると定義づけたいわけではないのです。
道徳は、みんなが存在している中で、安全に過ごせる基準として必要です。
しかし、私たちが生きている日常は、いろいろな事情やあり方が日々変わっていくものです。
私たちは、予測不可能、不確実性の営みを行っているのだから。
そこに何の疑問も持たずに道徳だからとあてはまめることは、難しいことだと思います。
では道徳は、どのようして作られるべきなのか、また考えるべきかというと、
それは、その空間の人々で話し合われて、共通了解を見出す必要があると思います。
つまり、一部の権力者によって一方的に決められるものでないものにすることが必要。
そして、たとえ決められたとしても、その道徳を絶対視したり、
十分な検証がなされないまま「正しいもの」と信じ込んでしまわないよう、
道徳自体を俯瞰してみる必要がある。
のではないかと思います。

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