今回、映画『竜とそばかすの姫』を観ました。
細田守監督の映画で、有名なので観た方も多いのではないでしょうか?

私がこの映画を見終わった後に感じたことは、
これは「ケア利他のストーリー」だ
ということでした。
今回はどうしてそのように考えたのかを書いてみようと思います。
ケア利他とは何か?
前回の記事で、ケア利他について書いてみました。
その際に二人のケア、利他のあり方をご紹介しました。
それを再度簡潔に書いてみると、
小川公代的なケア
大きな物語、そしてそこの物語から隠されたり、こぼれ落ちたり、なかったものとして
扱われているような小さな物語、これら両方者の多声性を持って、
この物語自体に変容をもたらすこと、それがケアであるとする。
近内悠太的なケア、利他
他者に導かれ、相手が大切にしているものを大切にしようとする営みである。
そしてその行為は「合理的にはしないはずのこと」もしくは「にもかかわらず行う」という逆説性
を持っており、それこそが信頼を生むものである。
また相手を変えるのではなく、自己変容が起こるものである。
そして、その結果自分自身もケアされるセルフケアが起こる。
でした。
これらは共通する部分もあり、
例えば、
変容、変わるということ、
話を聞くということ、そこから相手を知ろうとすること
です。
どの点がケア利他であるのか?
ではなぜ「ケア利他」であると思ったかを書いてみようと思います。
ここからは映画の話を元に考察していきますのでネタバレ満載です。
そばかすの姫の利他、ケアー近内悠太的ケア理論で見るー
他者の痛みに導かれて
鈴は母親を亡くしたことにより、歌が歌えなくなる。
そんな時、仮想世界Uを知る。
その世界では、ベルと呼ばれる分身となり、現実とは異なる人生を歩む。
歌えなかったはずの歌をここでは歌うことができ、彼女の歌声がこの世界で知られることとなり、
人気を得る。
一方、仮想世界Uで、「竜」は、暴力的で破壊的なふるまいを見せ、
世界中から恐れられる謎の存在としている。
そんな竜に対して、鈴(ベル)は、暴力性と破壊的な振る舞いによって、
竜が何かしら傷を負っているのではないかと気がつく。
そしてそんな彼の声に、鈴(ベル)は耳を傾けようとする。
これはまさに「近内悠太のケア利他論」そのもののだと思いました。
つまり、鈴(ベル)は、「竜」の荒々しさ、そこに何かしらの「傷」を感じとり、彼を知ろうとする。
他者の痛みに導かれ、そこから他者を知ろうとする営みが始まるのです。
ジャスティスの取り締まりと、その世界の共通道徳
そんな竜を秩序を乱すものとして、徹底的に取り締まろうとするジャスティス。
竜の暴力性は彼らの正義からは外れたもの。
そして、そんな竜を守ろうとする鈴(ベル)も、彼らの正義から外れたものとみなされる。
その結果、鈴自身もアンベイル(仮想現実Uの中でオリジン(現実世界の姿)を晒されること)
されそうになる。
アンベイルは仮想現実Uのユーザーにとって、最大の恐れ、
現実世界で言えば死を意味するものでもある。
近内悠太は、『利他ケア傷の倫理学』の第2章利他とケア、倫理は道徳と衝突するという部分で、
道徳と倫理の違いについて書かれてあります。
道徳は共同体の規範=してはいけないからしない、
倫理は今日・ここ・私の規範=したくないからしない
であるとしています。
そしてこれらは衝突してしまう。そして倫理は時として、反道徳的となる可能性を帯びている。
と筆者は言います。
そして(以下引用)
”ある事象を利他と呼ぶためには、そこには矛盾や衝突、ためらい、逡巡、
すなわち葛藤がなければならない”
と。
これを踏まえて、この部分を考えてみると、
仮想現実Uの世界での共通道徳とは
「ジャスティスの定める秩序に反する者は取り締まりの対象となり、
最悪の場合アンベイルされることも正当化される」という、強者主導の正義である。
にもかかわらずー鈴の利他ケア的行動
にもかかわらず、彼女は竜を助けようとし、最終的には自らアンベイルし、
現実世界の自分で歌を歌い続ける。それによって竜に勇気を与えようとする。
「にもかかわらず」「合理的ではないにもかかわらず」行う行動はまさに「近内悠太的なケア利他」
であると考えます。鈴(ベル)は、この世界の共通道徳を超えて、倫理に進んだのです。
鈴(ベル)における自己変容
現実世界で竜と弟の智が、家庭内暴力を受けており、家からも出られない状態であることを知る。
彼女は彼らを助けるために、危険にもかかわらず、現実世界の彼らのところへ一人で行く。
この行動はまさに、「にもかかわらず」「合理的ではないにもかかわらず」行う行動です。
この鈴(ベル)の行動、現実世界では歌を歌うことができなくなるほど、そして周りからは、心配される側だった彼女が、危険を冒してまで、誰かのために行動するほどにまで変わる。
これこそ自己変容、「セルフケア」が起こっていると言えるのだと思います。
まとめ
これら物語の流れは、
他者に導かれ=竜の暴力性から彼の傷、孤独、悲しみ、怯え
相手が大切にしようとしているもの=弟のこと、逃げ場のないこの生活
合理的ではない行為=鈴自身でアンベイルすることで、見せたくない自分を見せること
また、ここまで仮想世界で積み上げてきた人気を失うこと
危険にもかかわらず、竜と智の現実世界の家に行くこと
セルフケア=鈴自身も歌が歌え、人のために動き出せるまでに心が回復した
このストーリーは、まさにケアストーリーであると言えると思います。
次回は小川公代的なケアから、この映画のケアについて書いてみようと思います。


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