前回は、私が誤ってカメラを洗濯してどうしようもなくしてしまった話を書きました。
そのような私の失敗談から、どうして?と沸き起こってきた疑問について書いてみました。
そこで浮かんだ疑問の内容を簡単にまとめてみると、
1、写真に関する疑問
- なぜ見返しもしない写真を撮っているのか。
- 写真や思い出とは一体何なのか?
- なぜ写真が失われたことでこんなに後悔してしまうのか?
2、人はなぜ違和感を放置してしまうのか?
3、そもそも後悔とは何であるか?
です。
一つひとつ考えていきたいと思います。
自分が考えた仮説ー1、写真に関する疑問ー
なぜ見返しもしない写真を撮っているのか。写真や思い出とは一体何なのか?
私の仮説は以下の通りです。
1、写真を撮っている瞬間は2度とこないので、その2度とこないものを残しておこうと思って撮っている。
2、撮っている最中は見返さないとは思わずに撮っている。そして、それは撮るという行動自体に満足している
3、逆に見返すと仮定した場合、撮った写真から、その瞬間を思い出すきっかけになるので、撮っている。
端的にまとめると
期間限定的な状況、特別感。(1)
行動自体に自己満足(2)
未来からこの瞬間に戻るためツール。(3)
が考えられると思います。
なぜ写真が失われたことでこんなに後悔してしまうのか?
次の疑問の仮説は以下の通りです。
1、写真を撮ったという行為自体も失ってしまったように感じること
2、必要不必要に関わらず、自分の所有物が無くなってしまうことへの喪失感と勿体なさ?
3、思い出自身が消えてしまい、その時を思い出すきっかけがなくなってしまったことへの後悔
簡単にまとめると
自分自身の行動の無効化(1)
自己所有物の喪失からくる複雑な心理(2)
ツールを無くしてしまったことへの不安(3)
ではないかと推測されます。
助っ人AIと話してみる
ではこの考えについて、助っ人AI(今回はGrok)に聞いてみました。
そして心理学、社会学の視点からも検討してもらうようにお願いしてみました。
以下は私の考えから助っ人AIが教えてくれたことをベースに書いてみます。
私の仮説・「期間限定的な状況、特別感」 に対する助っ人AIの考察
心理学では、「希少性の原理」(Cialdini, 2001)が関与します。
人は「二度と来ない瞬間」に価値を見出し、それを保存しようとします。
私の仮設・「行動自体に自己満足」に対する助っ人AIの考察
写真を撮る行為は、「行為そのものに意味がある」場合があります。
これは「儀式的な行動(ritual behavior)」として理解でき、
撮影することで「大切なものを残した」という達成感や自己効力感を得ます(Rook, 1985)。
また、現代社会では、写真撮影が「良い親」「良い生活者」の役割を果たす文化的規範とも結びついており、撮る行為自体が社会的アイデンティティを強化します。
これは、写真を撮る行為が「その瞬間を永遠化する」試みであることを示します。
私の仮説・「未来から瞬間に戻るツール」に対する助っ人AIの考察
写真は「外部記憶装置」として機能し、記憶を補強します(Belk, 1990)。
人は記憶が曖昧になることを知っているため、
写真を「思い出を呼び戻すトリガー」として利用します。
心理学的に「自伝的記憶(autobiographical memory)」を活性化する役割と一致します。
見返さない写真にも価値があるのは、「いつか見返す可能性」を保持することで、
心理的な安心感や連続性を保つためです。
これは「自己満足的な行動」というあなたの指摘ともつながります。
まとめると
写真を撮るという行為は、
希少性、記憶の補助、「儀式的な行動」による達成感と自己効力感につながる。
またその行為が社会に向けた社会的なアイデンティティとなることもある。
(これは私は考えてなかった視点で面白い。そのような側面も確かにあるのかもしれない)
見返すことはないだけれども、もしかしたらいつか見返すかもしれないという
「潜在的価値」を持っているからこそ行うことなのだと理解しました。
以上のような色々な価値を心理的に感じている、持ち合わせている写真や思い出だからこそ、
それらが失われてしまうということは、ただ写真が消えるということだけでなく、
それらの価値自体を無くしてしまうように感じられるから、後悔が大きいのだと思います。
また今回は、子供が撮った写真も失われてしまったということで、
子供のそれらも含めて失ったと感じたからこそ、後悔もさらに大きいのだと思います。
上記でも少しありましたが、連続性という話。
これは具体的には、
アイデンティティの連続性(Identity Continuity): 写真は自己や家族の物語を構成する一部であり、
失うことで「過去とのつながり」が断たれた感覚が生じる(Sani, 2008)。
とありました。これも面白いなと思いました。
写真というのは大昔にはなかったもの。
そもそも人間が生きていく上での連続性において必ずしも必要ではないものだと考えられます。
にも関わらず、それに心が引っ張られてしまう。非常に面白いです。
また面白いなと思うのは、
無意識のうちに、人は「過去」「現代」「未来」という時間軸を常に持ち合わせながら、
行動しているということです。
この写真を撮るということからもわかるような気がしました。
写真を撮るときには、
その瞬間を意識し、(現在)
そしてその写真をトリガーとして未来の自分が過去を思い出すことを思う。(未来と過去)
一瞬にしてこの3点の時間を感じているわけです。とても面白いなと思います。
また人は、もしも〜という仮定についても考慮していて、非常に面白いなと。
そのもしもは必ずあるわけではないことだけども、そのことを意識している。
そんなことを考える意味などないかも知れない。でも考えてしまう。なんとも愛おしいですね。
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